しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「地球の裏側」議論

一昨日(24日)の日経新聞「経済教室」は、
長谷部恭男東京大学教授の「集団的自衛権の論点㊦〜憲法解釈の変更は無理筋」でした。

長谷部教授は、
集団的自衛権の行使を憲法解釈を変更することで可能にすべきだという主張は、
『個人にたとえれば、全くの別人になったかのような驚くべき人格の変貌であり、
 そこまで違う国になりたいのであれば、正々堂々と憲法の条文を改正するのが筋のはずで、
 それが難しそうだからといって、解釈の変更でコソコソ済ませようという話ではない。』
と述べられています。

う〜ん、ここまでは極めて分かりやすい説明です。
そして、次のように述べられて
ポストモダン国家」への移行が、地球各地で進んでいることを指摘されています。

『ヨーロッパの諸国家が示すように、
 国境の意義は格段に低下して人と物とサービスは自由に行き交い、
 安全は力の均衡によってではなく、透明性や相互監視によって保障される。
 国内問題と国際問題の区別が消失するとともに、各国の価値や文化ではなく、
 人類普遍の価値が正しさの判断基準となる。』

そのうえで長谷部教授は、こう言われています。
日本国憲法は日本という国民国家を構成する憲法である。
 そこに9条があることが、ある種の違和感を醸し出してきた。
 戦争する国民国家のはずが、なぜ戦争放棄を宣言するのか。
 しかし、ポストモダン国家では、9条を備える憲法こそが究極の標準形である。』

う〜ん、ちょっと分からなくなってきました。
ポストモダン国家」って、一言でいえばどんな国家なのでしょうか?
グローバル化された国家のこと…?
それにどうして戦争放棄を備える憲法が「ポストモダン国家」の標準なの…?

ここにきて、自分の知識不足が明らかになりました。(トホホ…)
でも、「人類普遍の価値」もあやふやな定義のような気がしてなりませんし、
長谷部教授がが論考の最後に述べられている
「時代錯誤の「帝国」(中国のことでしょうね。)の変化を予期して、
 それに備えた東アジアの未来を構想すべき」と言われても、
あまりにもユートピア的で、私にはピンとこないのです。

中西教授と長谷部教授の論考を読み比べて、
自衛隊が「地球の裏側」に行くか行かないかという議論より、
集団的自衛権の「論点」は、本当はとても奥が深いことだけは理解できました。