しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

大阪万博の思い出

今日は、二十四節気の「小寒」です。
いつものように「こよみのページ」で調べると、次のように解説されていました。

『この日は寒の入り、これから節分までの期間が「寒」である。
 寒さはこれからが本番。池や川の氷も厚みをます頃である。』

暦の上では「寒の入り」だというのに、
今日も朝から雲がほとんどない快晴の天気でした。
心なしか、日の入りの時刻が遅くなったような気がします。

さて、昨日に続いて「思い出シリーズ」です。
今日の日経新聞「熱風日本史」は、「見た、並んだ大阪万博」でした。
記事の冒頭は、次のような一節でした。

『1970(昭和45)年、大阪・千里丘陵に未来都市が出現した。
 日本万国博覧会だ。
 半年の開催期間中、のべ約6400万人という空前の入場者を記録した。
 それは戦後復興、経済成長をなしとげた日本人自らの壮大な祝祭だった。
 一方で、「映像と音響だけの見せ物」という批判もあり、
 混雑ぶりから「残酷博」などともいわれた。』

私も、6400万人の一人です。昭和45年といば、私は中学3年生。
その前の年の10月に、父の転勤に伴い、
滋賀県大津市から故郷・愛媛県伊予郡に引っ越ししていました。

父と弟と私の3人、夏休みを利用して大阪万博に行きました。
記事にも書いてありましたが、人気パビリオンは長蛇の列で、
数時間並んでやっと入れるような状況でした。
各パビリオンの展示内容は、ほとんど覚えていないけれど、
とても暑い中、じっと我慢して並んだことだけは記憶に刻まれています。

なお、この時初めて、飛行機という乗り物に乗りました。
YS11のプロペラ機だったと思いますが、
松山空港からは、あっという間に伊丹空港に着いて、正直びっくりしました。
それまで、長時間の船旅が当たり前だと思っていたからです。

そして、同じ日経新聞紙面の「遠見卓見」では、
橋爪節也大阪大学総合学術博物館館長が、
万博経験者の聞き取りが必要だとして、次のように述べられていました。

『万博のときは大阪市内の中学1年生だったので、13回会場に足を運んだ。
 五感を刺激する映像と音響にびっくりした。
 私も含めて日本人は万博のような表現世界は初体験だった。
 人々は現在よりも貧しく、万博の世界と日常生活はかなり断絶していた。
 それゆえ衝撃は大きかった。
 高度成長期だったこともあるが、あの熱気は経験した人でないと分からない。
 記憶が風化しつつあり、戦争体験の聞き取りのように、
 「万博体験」を収集する時期だろう。』

確かに、我が家も貧しかったです。
当時の父の給料で、よくぞ万博に連れて行ってくれたと感謝しています。
しかも片道は飛行機で……。

ただ、母を一緒に連れて行くだけの、経済的余裕はなかったみたいです。
「お母さん、僕たちだけ楽しんで、ゴメンナサイ。」
当時は言えなかった言葉を、この日記に書き残しておきます。

さぁ、明日から仕事です。
その前に、早起きできるか心配です。