2月ももう少しで終わりです。
「異動や転勤の季節がやってきた」ということで、
今日(21日)の日経新聞「春秋」は、引っ越しに関するコラムでした。
コラムの最初と最後の一節は、次のような味わい深い文章でした。
『色あせた写真、古い領収書。箸が1本、なにかの部品、そしてお年玉袋……。
中身まで残っていて思わず歓声を上げる。
引っ越しで家具を動かすと、乱雑な過去と遭遇する。
でも、その度に感慨にふけっていては、日が暮れてしまう。
喜怒哀楽を封じて手だけを動かす。
〜(中略)〜
「放した馬は捕まえられるが、放した言葉は捕まらない」
「百歳の人はいないが千年の言葉はある」。モンゴルの格言である。
物に執着しない人々は、その代わり言葉を大切にするという。
言葉とは、心の記憶であり想念であろう。見習うべきかもしれない。
引っ越しは、自分にとり何が本当に大切かを問う好機でもある。』
このコラムを読んで、自分は「これまで何回引っ越しをしたのだろう?」と考えました。
来し方を振り返ると、次のとおり58年間で15回、引っ越しを経験していました。
伊予郡松前町(出生)→①大阪府茨木市(幼稚園)→②滋賀県大津市(小1)
→③伊予郡松前町(中2)→④京都府京都市(大学浪人)→⑤東京都練馬区(大学1)
→⑥埼玉県所沢市(大学3)→⑦東京都新宿区(大学5)→⑧愛媛県今治市(就職)
→⑨伊予郡松前町(転勤)→⑩松山市東石井町(結婚)→⑪伊予郡松前町(自己都合転居)
→⑫愛媛県八幡浜市(転勤)→⑬松山市山越(転勤)→⑭松山市祝谷(自己都合転居)
→⑮伊予郡松前町(生家を取り壊し自宅新築)
コラムでは、年4回も移動するモンゴルの遊牧民は、
引っ越しに特別の感情を抱かないそうだと書かれていましたが、
こうして改めて自らの「引っ越し歴」を整理してみると、
いずれの引っ越しも何かしらの忘れ難い思い出があります。
子どもの頃の引っ越しは親任せでしたし、
独身の頃の引っ越しは荷物が少なかったせいか、それほど苦痛な記憶はありません。
しかし、結婚して娘が生まれてからは、
「よくもまぁ、これほどの物が家の中に入っていたものだ」と驚くほど、
引っ越しする度に荷物が多くなって、作業の煩雑さや膨大さに気が遠くなりました。
(私は気が遠くなっただけで、荷造り等の作業は、ほとんど妻に任せきりでした。)
引っ越しは、荷物の多い少ないといった記憶はさることながら、
その土地その土地の「情景」や、その時その時の「心情」を思い起こさせてくれます。
「引っ越しに人生あり」です。