先月27日の産経新聞「産経抄」、『大学のお受験』を読んで、
懐かしくもほろ苦い記憶がよみがえりました。
東北大学の今年の2次試験で、仙台駅から大学に向かう臨時バスの混雑がひどく、
試験開始時間に間に合わない受験生が続出したため、
外国語の開始時間を30分遅らせるというハプニングがあったそうです。
その原因はよく分からないけれども、
「受験生に付き添う保護者の数が多かった」、との現場の証言があったとのこと。
このハプニングについて、コラムでは次のように書かれていました。
『もちろん、体調に不安を抱えるなど、受験生にはそれぞれ事情があろう。
それにしても、40年前の自分の大学入試の記憶をたどれば、
現在の私立小中学校の「お受験」のような、父母同伴の受験生など、
周りに一人もいなかった。』
私が高校現役の時に、東北大学を受験したのが、ちょうど40年前の昭和49年3月。
どうやら「産経抄」のコラムニストと私は、同世代のようです。
そして、コラムでも指摘しているように、
確かに「父母同伴の受験生など、周りに一人もいなかった。」と記憶しています。
また、このコラムでは、作家の北杜夫さんのことについても書かれています。
『作家の北杜夫さんは、旧制松本高校から東北大学に進んだ。
「そこの医学部にはよい教授が多いという理由より、
なにがなし仙台という名に憧れたのである」。
「どくとるマンボウ青春記」のなかで理由を語っている。』
実は、私が高校現役の時に、東北大学を受験校に選んだのも、
今から思えば、ただ単に、「北の地への憧れ」以外の何ものでもありませんでした。
愛媛から遠く離れた仙台の地をめざす息子の心境が理解できなかった母は、
保護者懇談会の際に、担任の先生に相談したところ、
「お母さん、それは麻疹のようなものですよ。すぐに治ります。」と言われたそうです。
母の心配を押し切って受験した結果は、
動機が単純だった(あるいは純粋すぎた)ために、あっけなく不合格。
浪人という回り道をして、経済的にも精神的にも両親に負担をかけてしまいました。
因果は巡るというか、まさか自分の娘も、
強引な(?)受験で、浪人という私と同じような道を歩むとは思いませんでした。
『「青春期」は自立の物語である。』とコラムには書かれています。
人に歴史あり。人それぞれに「自立の物語」あり。……ですね。