『私家版 日本語文法』(井上ひさし著:新潮文庫)を読了しました。
本棚の片隅にあったその茶色く変色した本は、
「昭和60年11月15日5刷」となっていました。
この本の中身に関する記憶が全くないので、
当時、何かの理由で購入して、
今まで読むこともなくそのまま本棚で眠っていたのだと思います。
昭和60年といえば、娘が生まれた年でもあるし、
十二指腸潰瘍で胃を切除した年でもあります。
それにしても、その時どんな意図で購入したのだろう?
思い出そうとしても、どうしても思い出すことができません。
さて、読後の感想といえば、なかなか「高度な」本でした。
中でも印象に残っているのが、「漢字の造語能力」と「敬語」の話でした。
「明治維新という疾風怒濤の時期、
西洋の文物が洪水のように東海の孤島に押し寄せてきたが、
それをどうにかしのぐことができたのは
ひとつはこの漢字の造語能力のおかげであった」と、著者は述べられています。
『あとからあとからと流れ込んでくる西洋文明を、
明治の知識人たちが片っ端から漢字に「翻訳」してくれなかったら、
わたしたちの曽祖父たちは横文字の海で溺死を強いられていたにちがいない。』
このように、著者はユーモア溢れる文章を書かれています。
坪内逍遥は「男性」「女性」「文化」「運命」を、
福沢諭吉は「自由」「演説」「鉄道」を、森鴎外は「業績」を、
それぞれ訳語として造出したと解説されていましたが、
漢字の造語能力もさることながら、
つくづく明治の人は偉かったのだと改めて感心しました。
次に、「敬語」に関しては、次のように書かれていました。
『われわれ日本人は、身振りや表情に乏しい民族であるという噂が
世界中にひろまっているようであるが、
筆者のこの偏痴奇論は、この事情を説明する鍵となるであろう。
すなわち、われわれの日本語は世界でも指折りのことばとしての敬語を持っている。
力関係や連帯関係をすべてことばとして表現でき得る。
したがってその分だけ、表情や身振りにらくをさせているのだ、と。
もしも日本人がアメリカ人のように、
はっきりした、そしてやや大袈裟な表情や身振りを持ちたいと望むならば、
敬語体系の相当部分を打ち壊さなければなるまい。
これが敬語についての、筆者の最後の偏見的独断である。』
このほか、たくさん面白いことが書かれていました。
約30年振りのこの本との邂逅に感謝したいと思います。

- 作者: 井上ひさし
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1984/09/27
- メディア: 文庫
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