「幸せ」についての続きです。
「敬老の日」であり、「老人の日」でもあった
今月15日の朝日新聞「天声人語」に、次のような文章がありました。
『年をとるにつれ、人の記憶の配置というものは変わっていく。
精神科医の中井久夫さんは『徴候・記憶・外傷』でそう指摘する。
いわば縦並びから横並びへ。
若い頃は日めくりカレンダーのような年代記だが、
だんだん時間の順序があいまいな遠近法になり、最後は一枚の絵になる、と。
単純化した話ではあっても、なぜか納得させられる。
人生の記憶の画面を眺める無為の時間。
それが手に入れば幸せといっていいのだろう。
敬老の日に皆様のご長寿を祈りつつ。』
ところで、私の父は、今年86歳です。
足腰はずいぶん弱ったものの、
毎日、自転車に乗って囲碁を打ちに出かけるなど、
おかげさまで元気な毎日を過ごしています。
ただ、頑固で融通が利かず、マイペースな性格のため、
私と私の妻は、いつもその「取扱い」(?)に苦慮しています。
時々、自分がもし父の年齢まで生きたとしたら、
同じような頑固者になって(いまでもそうですが…)、
娘に煙たがられるのではないかと思うことがあります。
その父は、「天声人語」に書かれていたような、
「人生の記憶の画面を眺める無為の時間」というものが、
手に入っているのでしょうか?
母に先立たれてからは、「幸せ」だったのでしょうか?
簡単に聞けそうで、実は聞きにくい質問なのです。