しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「1」に込められた意味

最近、朝日新聞デジタル版で、

鷲田清一さんの「折々のことば」を読むのが日課になっています。

 

全文で220文字余りの凝縮された文章のなかに、

綺羅星(きらぼし)のような言葉が並んでいて、

天声人語」とはまた一味違った魅力があります。

 

その今日の「折々のことば」は、香月泰男さんの次のような言葉でした。

 

『1瞬に1生をかけることもある。1生が1瞬に思える時があるだろう。』

 

恥ずかしながら、香月泰男さんという人を今回初めて知りました。

さっそくウィキペディアで調べてみると、

香月さんは山口県出身で、戦後、ソ連強制収容所に抑留され、

その時の体験が、その後の作品全体の主題・背景になったとのことで、

没後、遺族からシベリア・シリーズの作品が山口県に寄贈・寄託され、

同作品は山口県立美術館に展示されているそうです。

 

そして、この香月さんの「ことば」について、

鷲田さんは、香月さんの手書き、横書きの文章は、

「1」がまるでくさびを打つかのように映るとして、

次のように解説されていました。

 

『香月の画業のすべてはシベリア抑留中に目にし、

 経験した非業と非情への問いかけとしてしかありえなかった。

 人にはどうしても消せない一点、癒えない一点があって、

 時とともに語り口は変わっても、

 ついに同じ一つの〈傷〉を際限なく反芻(はんすう)するほかないものなのか。』

 

では、私にとっての「消せない一点、癒えない一点」は何なのか?

自問してみても、たくさんあり過ぎて困ってしまいます。

 

ただ、香月さんのように

「経験した非業と非情への問いかけ」としての極めて重い「一点」ではなく、

私の場合は、とても軽々しい「一点」の集合体でしかありません…。

極限状態に置かれた場合には、真っ先に自分を失いそうです…。

 

そんなことを考えながら今日の記事を読んだ次第です。