今月6日付けの「溜池通信」の特集記事は、
『再び「テロと格差の時代」への私論』でした。
今回の特集記事も、示唆に富む記述が盛り沢山でした。
「かんべえ」さんの、「テロ」と「格差」についての結論と思われる個所は、
それぞれ次のとおりではないかと私は思います。
まず、「テロ」についての結論です。
『つまるところ「テロの時代」の心得とは、
個人も政府も従来からの原則を曲げずに「痩せ我慢」をするということに尽きる。
多くの人が感情に押し流されるようになれば、
もっともわかりやすい形でテロリスト側の「思うつぼ」となってしまうのである。』
次に、「格差」については、「21世紀の資本」を取り上げ、
ビケティの議論の中核は、「相続」の部分にあるのではないかと述べられたうえで、
次のような私論を展開されています。
『つくづく「21世紀の資本」が中心テーマとして掲げているのは、
「富の分配」であって「格差の是正」ではない。両者は似ているようで違う。
格差という現在の経済面の不平等だけが問題なのではなくて、
富の不均衡は長い時間をかけて価値観や社会に歪みをもたらす。
そっちの方が、より重大で深刻なテーマであるはずだ。』
レポートを読むと、
どうやら「かんべえ」さんも私も、昭和ひとケタ世代に育てられた世代で、
「財産は個人の努力と倹約で作る」ことが当たり前の時代……。
高度成長時代のメリットを享受し、
「格差や不平等をほとんど意識しなくて済んだのは、
今から考えるまことにラッキーなことであった」とする「かんべえ」さんのご指摘は、
まことにもってそのとおりだと思います。
ところが、ビケティの議論から行くと、こんな風に楽観的でいられたのは
私のような20世紀のごくわずかな時期の世代に限られ、
戦争の記憶が遠くなるとともに、r>gという法則に導かれて、
世の中は確実に「勉強と労働では、とうてい快適で優雅な生活は得られない」
という19世紀型の社会に向かっているようです。
「人並みに真面目に生きた」という遺物しか後世に残せそうもない私は、
娘や孫娘の世代が、困難で悲観的な世代とならないよう、ただただ祈るばかりです。