しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「永遠の今」と「永遠の死」

『西田幾太郎〜無私の思想と日本人』(佐伯啓思著:新潮新書)を読了しました。

本の中で印象に残った個所を、いつものように書き残しておきます。

 ・哲学の「動機」は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない。

 ・今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、
  忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。
  もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、
  此処には深き意味がなくてはならぬ、
  人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
  死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
  死の事実の前には生は泡沫の如くである、
  死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を語ることができる。

 ・西田は、その時間論のなかで、存在する時間は、ただ「今」だけだ、といいます。
  われわれは「今」この瞬間しか、自己を意識し得ないからです。
  時間として意識できるのはただ「今」の瞬間だけです。
  しかし、その「今」は、すぐ後には過去となり、また将来が次々と「今」になる。
  こう考えれば、あらゆる「今」のなかに、過去も将来も含まれているのです。
  それを西田は「永遠の今」といったのでした。

 ・「自己の永遠の死を自覚すると云うのは、我々の自己が絶対無限なるもの、
  即ち絶対者に対する時であろう。
  絶対否定に面することによって、我々は永遠の死を知るのである」
  そして、「自己の永遠の死を知るもののみが、
  真に自己の個たることを知る」のであり、
  「それのみが真の個である、人格である」というのです。

 ・では、「悲哀」から始まる日本の思想とは何なのでしょうか。
  西田は、西洋思想は「有の思想」であり、日本の思想は「無の思想」だとみる。
  西洋は「有」から出発し日本は「無」から始まるという。

 ・抽象的、一般的な時間として過去や未来があるのではなく、
  苦しみや愉楽の感情と結びついた経験として過去や未来がある。
  「過去と感ずるのも現在の感情である」と
  西田は「善の研究」のなかでいっていますが、
  西田にとっては過去へ向かう記憶も、そして未来へ向かう意志もともに、
  まさに今ここでの「純粋経験」にほかならないのです。
 
 ・西田は、このような「情」をもつことが日本文化の特性だと考えていました。
  そして「特殊性を失うということは文化というものがなくなることである」
  といいます。
  文化がなくなることはその国の国民性がなくなることです。
  端的にいえば「日本」がなくなるということなのです。

 ・人間死生の際のみ、本当の真実というものが味われ
  平素の虚偽の生活をおもうて頭が下がるものです。

佐伯教授の分かりやすい解説によって、「西田哲学」の一端を知ることができました。
特に、「永遠の今」と「永遠の死」という言葉は、強くインプットされました。
日本人にも、「思想した日本人」がいたのですね…。

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)