今月8日の朝日新聞「異論のススメ」は、保守の論客、
佐伯啓思・京都大学名誉教授の『「主権者教育」という前に』でした。
今年は、投票権年齢の引き下げがあり、憲法公布70年にあたり、
また、次の参院選で憲法改正が論議される可能性もあることから、
憲法や民主主義といった概念がふたたび焦点になるかもしれないとして、
佐伯教授は次のような問題を提起されています。
『戦後、われわれは、民主主義や国民主権、
それに憲法といった概念をすでに目の前にある自明のものと思ってきた。
民主主義といえば、誰もわかったような気になってきた。
しかし、民主主義も国民主権も憲法も、実は、たいへんわかりにくい概念である。
主権者教育というなら、そもそも民主主義とは何か、主権とは何か、
といったことをまずはじっくりと考えてみてはどうであろうか。』
そして、この論評の結論を先に書くと、次のような記述になっています。
『われわれは無条件に民主主義は国民主権だからすばらしいと思っている。
そして国民の意思を示すのは「世論」であり、政治は「世論」に従うべきだという。
「国民の意思」が政治を動かすべきだという。
しかし、そもそも国民の意思などというものはどこにもない、
「世論」も多様な意見の集積を統計化しただけのことだ。
つまり「主権」という言葉はたいへんに危うい言葉である。
そのことを「主権者」であるわれわれは決して忘れてはならない。』
う~む、相変わらず「ドキッ」とするような鋭い御指摘です。
結論までの途中の記述を省略してしまいましたが、
佐伯教授は、日本の民主主義の思想的な記念塔とされた
吉野作造の『憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途を論ず』
という論文を紹介されています。
この論文で吉野作造は、『デモクラシーでは、「少数の賢者」が、
国民の知や徳に対して指導的な影響をあたえ、
その上で、その影響を受けた多数者が政治を動かすべきだ』と述べていたそうです。
このことを踏まえたうえで、佐伯教授は、
『物事を総合的に判断でき、公共心に富んだ知者が
「賢者」としての役割を果たして、世論を動かし、
国民の多数は、その見解を聞きつつ、政治を託するにたるものを選ぶ。
こうした代議制は、必ずしも民主主義と呼ぶ必要はない。
つまり、代表制に基づく議会主義の政治と、国民主権の民主主義は、
理念の上では、かなり異質なものなのである。』と述べられています。
ふぅ~、まいったな…。ちょっと違和感はあるけれど、
こんなこと、今まで考えたこともありませんでした。
『大事なことは、政治とは国民の利権と意向を目的にして行われる
という一点であって、主権がどこにあるのかはそれほど重要でない』
「国民が主権者の政治ではなく、国民を本位とする政治」という
「主権」という言葉が「たいへんに危うい言葉」であるという
佐伯教授の述べられている意味が、なんとなく理解できるようになりました。
これらの言葉を「当たり前のように」、「分かったように」使ってきた私…。
言葉の本質を、今一度、勉強してみる必要があるようです。(反省)