今月26日の産経新聞「阿比留瑠比の極言御免」を読んで、
「新聞」が伝える「事実」というものについて、少し考えるところがありました。
記事では、米国のジャーナリスト、リップマンが、
1922年に刊行した著書『世論』の中で、
新聞について次のように指摘していることが紹介されていました。
「ニュースと真実とは同一物ではなく、はっきりと区別されなければならない。
(中略)ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することである。」
「新聞はサーチライトのようなもので、休みなく動き回りながら
暗闇のなかに一つまた一つとエピソードを浮かび上がらせる。」
「(新聞は)そろって性悪でもないし、
それほど深いたくらみを抱いているわけでもないとしても…
(新聞は)自然に手に入るものと民主政治論者が希望的に思っていた
真相というものを自発的に提供することもできない。」
このような指摘を紹介したうえで、記事では次のようなことが書かれていました。
『確かに、新聞をはじめメディアのできることは、
闇夜に漂う巨大で複雑な多面体である「真実」の
一部分・一断面である個々の「事実」に光を当てることぐらいだろう。
可能な限り、多方面からサーチライトを照射しても、
全体像を把握するのはなかなか難しい。
ましてや、記事は社論やその時々の紙面の都合で取捨選択されたり、
扱いの大小が変わったりするものだから、
せっかく捉えた本質も雑多な事実の中に紛れてしまいがちである。』
『新聞には、おおむね「事実」は載っている。
ただ残念ながら、注意して能動的に探さないとそれを生かせない場合も多い。』
う~む、なるほど……。
普段なにげなく新聞に目を通していますが、この記事を読んで反省しました。
新聞報道の「事実」の中にある「本質」をとらえるためには、
読み手の力量も試されているのですね……。