今月22日の産経新聞「正論」に、雪斎先生こと櫻田淳・東洋学園大学教授が、
『「踊る阿呆」と「見る阿呆」の作法』という、
ちょっと風変わりなタイトルの論評を寄稿されていて、興味深く読みました。
それぞれの「阿呆」に込められた意味は、次のようなものでした。
『凡(およ)そ、「国家の統治」に際して、
政治家や官僚のような「踊る阿呆」と政治学者やジャーナリスト、
さらには一般国民のような「見る阿呆」には、
それぞれ踏まえるべき別の作法がある。
「踊る阿呆」は、権力を行使する作法を身に付けなければならないけれども、
「見る阿呆」は、その権力の行使の仕方を監視し、
評価する作法を身につけなければならない。』
この「定義」を踏まえたうえで雪斎先生は、最近の「主権者教育」においては、
「見る阿呆」の作法が大事な役割を果たすことを指摘されるとともに、
米国大統領選の「トランプ旋風」における「踊る阿呆」の作法のなさを、
次のように厳しく糾弾されていました。
『トランプ候補の言動は、米国国内のさまざまな社会階層における「断裂」を
あえて拡大させているかのように印象付けている意味では、
「人種のサラダ・ボウル」とも称される米国において、
「踊る阿呆」としての作法を全く踏まえていないものと評する他はない。
しかも、トランプ候補の対外関係に関わる認識は、
その「無知」と「時代錯誤」の性格において、
彼が「覇権国家・米国」の舵(かじ)取りを
担うに相応(ふさわ)しからざる不作法を示している。』
雪斎先生によると、「踊る阿呆」は「見る阿呆」に対して、
権力の行使に関わる自らの「踊り」の真剣さを伝えるのが、
「踊る阿呆」の最低限の作法とのことでした。
う~む、なるほど……。
物事にはそれぞれの「立場」や「役割」があり、
また、守るべき最低限の「作法」を身に付ける必要があるのですね……。
トランプ候補の支持者が、
民主主義における大切な「作法」を忘れていることがよく分かりました。