NHKテレビテキスト・100分de名著『維摩経』を読了しました。
いつものように、テキストのなかで印象に残った箇所を
次のとおり抜き出してみました。
・仏教は「智慧」と「慈悲」の獲得・実践を目指す教え。
自分というフィルターを通さずにものごとの本質を見る「智慧」と、
目の前にいる他者に対して、たった一人の我が子のように寄り添う「慈悲」。
このどちらが欠けても仏教は成立しない。
・人は「自分が正しい」「自分が優れている」といった自信を持ったとき、
見えなくなるものがある。
自分が秀でていると感じている領域にこそ落とし穴がある。
・自己の内面に目を向け、まずは自分の都合を消し去り(自己分析)、
さらに相手の心を知ろう(他者観察)としなければ、
人に何かを伝えることはできない。
・なにかに固執し、なにかにしがつくことで、苦悩は発生する。
だから、すべての本性は「空」であるという立場に立つことで、苦悩を滅する。
われわれは自分の都合というフィルターを通じて、ものごとを認識している。
だから、いつも認識が歪んでいる。認識の歪みは苦悩や排除や憎悪を生み出す。
そこで、自分というフィルターを通さない状態、
認識する側と認識される側との境界がなくなった状態を目指す、
それが維摩のいう「無分別」。
・「我」とは自己の本質のことで、「我所」とはその中身、
「自分はこうあるべき、こうあらねばならない」という“とらわれ”を意味する。
自分というものがただの要素の集合体であり、実体がないことがわかれば、
自分に対する思いや、とらわれもおのずと消滅していくことになる。
このテキストを読むまで、私は「維摩経」の存在を知りませんでしたが、
近代知性さえも魅了するだけの力があるとのことでした。
ところで、釈徹宗さんは、テキストのなかで
次のようなことも述べられていました。
『 ~(略)~ 都市化したマインドで暮らすうちに、
私たちは他者にうまく迷惑をかけることが苦手になっているように思います。
ですから私は、「お世話上手」や「お世話され上手」といった心身を
成熟させることを提言しています。
私たちは他者に迷惑をかけて暮らす存在なのです。
いずれ病いや老いによって、他者に我が身をゆだねる日がやってきます。
その覚悟が持てなければ、病いや老いがとても恐怖であり
嫌悪の対象になってしまうことでしょう。
迷惑をかけていないという傲慢な枠組みを点検して、
むしろ上手に迷惑をかけるすべを身につけるといった方向に
転換するのが良いように思います。』
はぃ、分かりました…。
最近の体調不良による病院通いで、私も妻に多大な迷惑をかけてしまいました。
これも「他者に我が身をゆだねる」第一歩なのかもしれません……。