今日28日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、
E・F・シューマッハーの
『どんな活動にも、それにふさわしい規模というものがある。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『国連の加盟国の急増が示すように、
20世紀、大国は分裂して小国になる傾向にあった。
また人々の「巨大信仰」とは裏腹に、
スイスやデンマークなどの小国は経済的にも豊かである。
「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」
と経済学者は言う。都市のサイズも再考が必要だと。
「スモール・イズ・ビューティフル」(小島慶三・酒井懋訳)から。』
「スモール・イズ・ビューティフル」という言葉を久しぶりに聞いたように思います。
いつ頃流行った価値観なのかは、すっかり忘れてしまいました。
そういえば、県職員時代、市町村合併の促進事務に関わっていたころ、
市町村の適正規模(人口や面積等)はどれくらいが相応しいのか、
私なりに真面目に考えたことがあります。
未だに答えらしきものを見つけることができませんが……。
市町村の適正規模といった「都市のサイズ」ではないにしても、
「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」
というのは、重要なご指摘だと思います。
そういう意味では、顔が見える範囲の、身近な町内会や自治会といった集団が
生活していくうえで一番大切な組織なのかもしれませんが、
例えば、我が家が属する町内会では、空き家がある一方で、
分譲宅地に新しい住民の方が引っ越してきたりして、
昔ながらの意思疎通がなかなかできにくい住環境になりつつあります。
なお、その空き家や分譲宅地は、高齢化によって、それまで住んでいた方が
長年住み慣れた家から転居されたことによって生じたものです。
「理解の届く集団」といえば、 その最小単位である家族の維持存続でさえ、
危うい社会になっているような気がします。