『無私の日本人』(磯田道史著:文春新書)を読了しました。
深く感銘し、また、心が洗われた本でした。
本書は、「穀田屋十三郎」、「中根東里」及び「大田垣蓮月」という
江戸時代の三人の生きざま、
そして、その三人が持つ「無私の精神」を丁寧に描いていますが、
著者は執筆の動機を「あとがき」で次のように述べられていました。
『いま東アジアを席巻しているものは、自他を峻別し、
他人と競争する社会経済のあり方である。
大陸や半島の人々には、元来、これがあっていたのかもしれない。
競争の厳しさとひきかえに
「経済成長」をやりたい人々の生き方を否定するつもりはない。
しかし、わたしには、どこかしら、それに入ってはいけない思いがある。
「そこに、ほんとうに、人の幸せがあるのですか」という、
立ち止まりが心のなかにあって、どうしても入っていけない。
この国には、それとはもっとちがった深い哲学がある。
しかも、無名のふつうの江戸人に、その哲学が宿っていた。
それがこの国に数々の奇跡をおこした。わたしはそのことを誇りに思っている。
この国にとってこわいのは、隣より貧しくなることではない。
ほんとうにこわいのは、本来、日本人がもっているこのきちんとした確信が
失われることである。ここは自分の心に正直に書きたいものを書こうと思い、
わたしは筆を走らせた。』
なるほど、深い哲学ですか……。
私は、この三人のなかでも、大田垣蓮月の生きざまに強く心を打たれました。
それは「自他平等の修行」という、次のような「哲学」です。
『 ~(略)~ ところが、そのうち、そもそも自分というものに、こだわるから、
そんな小さなことに悩み苦しむのではないか、と考えはじめた。
自分などは、とるに足らない小さなものだ。
自分の名誉を護るなどという心を一切ふり捨てて生きれば、
つまらないことで苦しまなくてもすむのではないか。
そもそも、自分の心身は人にいわれて腹を立てるほど、きれいなものでもない。
むしろ、穢れている。もし、世の中が清らかであったなら、
とても暮らしていけないであろう。つまるところ、自分にとって必要なのは、
ーー自他平等の修行 なのではないか。心に自分と他人の差別をなくする修行を
生涯つづけることではないか、と思い定めた。』
数学者で作家の藤原正彦さんが本書の「解説」で述べられているように、
「日本人の誇るべき、そして近年忘れられてきた美徳」というものを、
改めて考えさせてくれる、貴重な「名著」だと思います。