今日は第四土曜日。岡山出張の疲れを癒す意味も兼ねて、
定例の漢方薬草湯「元気人村」https://www.iyokannet.jp/spot/456に行ってきました。
ただ、今日はあいにくの曇り空だったため、西の海岸に沈む夕日は撮れませんでした。
また、その西の海岸には、台風18号の影響かどうか分かりませんが、
大量の流木とプラスチックが砂浜に漂着していて、普段の美しい景観が損なわれていました。
さて、話は変わりますが、
今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、臨床心理学者・霜山徳爾さんの
『死者のすごしてきた人生のキャンバスの上に残る、描かれざる余白を、
われわれは恣意(しい)的にぬりつぶすわけにはいかない。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『死の翳(かげ)は生と対立するものではない。
もし人が死ねないとしたら人生はなんと疎ましいものになるかと、臨床心理学者は言う。
たしかに人の死とともに亡骸(なきがら)は腐りゆく。
が、亡き人の「面影」は人びとの中で生き続ける。
消え去ったものとしてではなく、残された者に、折にふれて生の意味を問いかけるものとして。
「人間の限界」から。』
大阪の叔父が亡くなってから早や四十九日。
満中陰を迎えた旨の挨拶状が我が家に届きました。
叔父も無事、あの世に辿り着いたことでしょう‥‥。
私の亡き母と叔父と、姉弟で仲良く楽しそうに会話している姿が目に浮かんできます‥‥。
鷲田さんが解説されているように、亡き二人の「面影」は私の心の中で生き続けます。