しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

生きる証しとしての哲学

『生きる哲学』(若松英輔著:文春新書)を読了しました。

この本は、「須賀敦子」・「船越保武」・「原民喜」・「孔子」・「志村ふくみ」・「堀辰雄」・

リルケ」・「神谷美恵子」・「ブッダ」・「宮沢賢治」・「フランクル」・「辰巳芳子」・

美智子皇后」、そして「井筒俊彦」という14人の方の生きざまに、

「哲学」を見出そうとする試みなのですが、文書が難解で、私にとっては高度な内容でした。

なお、恥ずかしながら、「須賀敦子」をはじめ14人中6人の方については、

そのお名前を今の今まで知りませんでした。私の勉強不足です‥‥。


ところで、この14人の方のなかで、印象に一番残ったのは、自分でも意外なのですが、

理研究家「辰巳芳子」の章における、著者の次のような記述でした。

『料理とは、「食」を通じて万物の理法を経験することである。

 「料」という文字は「はかる」ことを意味する。

 だが、料然という言葉があるように、隠されているものを見出す、との意味もある。

 「理」は、理法、公理という言葉通り、万物に偏く働きかける秩序である。

 料理とは、ふれ得ないもの、見えないものを、この世界に顕現させることだといえる。』


『食べることを止めることができないことを知りながら現代は、食の問題を追及することを避けている。

 あるいは食の問題を「食糧」あるいは「食材」の問題にすり替えている。

 それは「いのち」の問題を「病気」とその予防に置き換えるのに似ている。

「病気」は存在しない。存在するのは、病を背負い、苦しむ個々の人間である。』


さらに、本の「あとがき」の著者の次のような記述を読んで、

この本の題名である『生きる哲学』という意味が、少し理解できたように思います。

『この本で取り上げた人々にとって何かを語るとは、そうした市井に生きる無名の人々に宿っている、

 本当の意味での「哲学」の代弁者になることだった。

 「私の生涯のうちで最もすばらしくかつ有意義な会話は、無名の人々との会話であった」(河合隼雄他訳)と

 最晩年に著した自伝でユングが語った実感は、彼らに共通の経験だった。

 本書でも幾度かふれたが、ここでの「哲学」は、哲学者によって語られる言説に限定されない。

 それは、人間が叡智とのつながりをもつ状態を指す。

 このことは、「生きる」ことが不断の状態であることと深く呼応する。

 同時に、「哲学」とは、単に語られることではなく、生きることによって証しされる出来事だとも言える。』


なお、この本の「あとがき」で、著者である若松さんは、

『そもそも「哲学者」とは何かを哲学者の池田晶子さんからから多く学んだ』と述べられていました。

「哲学」といえば、何か特別な学問のように思えて、身構えてしまうところがあります。

しかし、かつて私も読んだ池田晶子さんの本や、この本を読んで、

自分の人生そのもの、生きることそのこと自体が、「哲学」を実践することなのだという気がしてきました。

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)