昨日のこの日記では、臼井興胤・コメダ社長の「時を操る」について書きましたが、
その「時」というか、「時間」に関して、
朝日新聞一面コラム「折々のことば」を執筆されている哲学者の鷲田清一さんが、
今月7日の日経新聞「文化」欄に、『いくつもの時間』と題するエッセイを寄稿されていました。
鷲田さんは、「折々のことば」では、紙面の制約から短い言葉で解説されていますが、
今回のエッセイは長文です。最初は、その要点だけこの日記に書き残そうと試みましたが、
とても大切なことが書かれていたので、少し長くなりますが、引用させていただきます。
『 ~(略)~ 望もうにも、もう一つの時間をもつというのは実際のところむずかしい。
親の介護やペットの世話に明け暮れる人、子育てにかかりっきりで息も抜けない人、
1日のほとんどの時間を組織の課題で刻んでいる人‥‥。
じぶんの時間なのにじぶんでどうこうできない人たち、
時間に「あそび」の幅をもたせられない人たちが、世の中にはいっぱいいる。
一つの時間を生きる、あるいは一つの時間をしか生きられないというのは苦しいことである。
生きものとして人間に無理をかけるからである。
人はいろんな時間を多層的に生きるポリクロニックな存在である。
仕事にあたりながら、心ここにあらずといった感じで別の思いを
ずっと引きずったままのときがある。手が止まり、放心したかのように思い出に浸るときもある。
ずっと心に引っかかるものがあって、一つのことに集中できないことがある。
過去へと流れ去ってくれないトラウマに心がじくじく疼(うず)いたまま、というときもある。
そのように意識がさまざまの時間に引き裂かれ、一つにまとまらないというのは、
さしてめずらしいことではない。
ふだんはほとんど気づかれることもないが、人の内にはさまざまに異なる時間が流れている。
呼吸が刻むリズム、消化をになう内臓のうねり、月経の周期、刻々と入れ替わる細胞の時間、
そしてその全体の老い。そうしたさまざまに異なる時間が、
ときに眠気や疲労感や空腹感のかたちで、あるいは尿意や便意、陣痛のかたちで、
意識の時間に割って入ってくる。「そわそわ」とか「じりじり」といった焦燥感が
意識の時間をひきつらせることもしばしばだ。
ゆたかに生きるというのは、それぞれの時間に悲鳴をあげさせないことだ。
どれか一つの時間が別の時間に無理をかけているというのは、生きものとして不幸なことだ。
が、たいていの人はこの無理を押し隠そうとする。抑え込もうとする。
それだけではない。人は他の生きものともいっしょに生きている。
老いた家族や幼い子どもとの時間、ペットとの時間、栽培している植物との時間。
そういう時間のなかにじぶんをたゆたわせることもできずに、
いまは仕事で忙しいから、しなければならないことがあるからと、
耳を傾けずにそれを操作しようというのは、生きものとして歪(いびつ)なことである。
余裕のなさから出たその言葉が、自身のみならず、同じ時間をともに生きる相手を
想像以上に痛めていることを知るべきだ。
齢を重ねたはてに知る寂しい事実がある。ずっといっしょに暮らしてきた、
比喩でいえばずっと同じ列車に隣り合わせて乗ってきたと思っていた連れ合いが、
じつは同じ速度で走る隣りの列車に乗っていただけのことだと思い知らされるときだ。
ずっと前から線路は知らないうちに少しずつ離れ、
気がついたときは隣の列車は声をかけても届かないほど遠くに隔たっていたということがある。
時間はいくつも持ったほうがいい。交替ででもいいが、できれば同時並行のほうがいい。』
う~む‥‥、割愛するのが難しくて、ほとんど記事の全文に近い引用となってしまいました。
私は、このなかでも、「一つの時間を生きる、あるいは一つの時間をしか生きられないというのは
苦しいことである。」という記述が、実体験として、なんとなく理解できるような気がしました。
また、「他者とともに生きる時間のなかにじぶんをたゆたわす」ことも、
哲学的な表現の難しさは感じるけれど、なんとなくその大切さが理解できるような気がしました。
いずれも「なんとなく」しか理解できないところが、私の能力の限界だと思います。(トホホ‥‥)