今日は金曜日。ようやく一週間を終えて、ほっとひと息ついているところです‥‥。
さて、今日の朝日新聞デジタル版「異論のススメ」に、
佐伯啓思・京都大学名誉教授が、「日大アメフト事件」に関連して、
『スポーツ本来の意義~「高尚な遊び」取り戻す時』という論評を寄稿されていました。
佐伯先生は、オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガが、
かつて「ホモ・ルーデンス」(1938年)と題する本で、
人間の文化は(そして政治も経済も)「遊び」のなかで生み出されたと述べていたことを
紹介されたうえで、次のような持論を展開されていました。
ちなみに、「ホモ・ルーデンス」とは「遊び(ルードゥス)」から発した「遊ぶ人」
という意味だけれど、もちろん、これは「遊び人」ではなく、
「ホモ・ルーデンス」とは、ただ生きるという生存活動ではなく、日常的生活を超えた次元で、
人間のもつ過剰なエネルギーが生み出した活動の様式とのことでした。
『政治も経済も、もともと「遊び」に淵源(えんげん)をもつという
ホイジンガの発想を借用すれば、今日の民主政治も市場競争も、
スポーツと同様、あまりに合理化され、組織化され、過度に勝敗にこだわり、
数字に動かされ、自由さも余裕も失ってしまったようにみえる。
確かに、今日の国会論戦も、金融市場の投機も、
どこかゲーム的で「過剰なエネルギーの発露」の感がないわけではないが、
そこには、「遊び」のもつ余裕もなければ、逆に生きる上での必死の生真面目さもない。
ただ、「勝つこと」だけがすべてになってしまった。
今日、大衆的なショウと化した政治も過度に競争状態に陥った経済もそしてスポーツも、
従来のルールに従っていては勝てない。
だから、トランプのような「反則的な」大統領が登場して保護主義を唱え、
習近平が自由貿易を唱えている。これも反則であろう。フェイクニュースの横行も反則である。
本来の「遊び」が失われてしまい、本当にはめがはずれてしまった。
勝つためには反則でもしなければ、という意識があらゆる領域で社会を動かしている。
「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあるのだ。
まずはスポーツこそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう。』
う~む、なるほど‥‥。
スポーツに限らず、政治も経済も、もともとは「遊び」に淵源があったのですね。
それにしても、そもそも「人間存在の根源」とは何なのでしょうか‥‥?
それが「遊びの精神」だと佐伯先生に言われても、
ちょっと私には理解が難しく、戸惑ってしまいます。
でも、「余裕と自由さ」をなくさないことの大切さは、なんとなく理解できたと思います。