今日の日経新聞「春秋」は、5歳女児虐待死に関する次のようなコラムで、
最後まで読み通すのがとてもつらかったです。
『こんな悲しい文章があるだろうか。
「きょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください」。
まだ小学校に上がる前の船戸結愛ちゃんが、ひらがなで必死に綴(つづ)っていた。
お願いの相手は本来なら自分を愛してくれるはずの両親だ。
結愛ちゃんは東京都目黒区のアパートで、十分な食事を与えられず、暴行を受け、
肺炎にかかって死亡した。放置していた両親は保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕された。
ほぼ軟禁状態だったという結愛ちゃんがどんな幼い日々を送っていたのか、
改めて記す気持ちにとてもなれない。救える命だったのではと、ただ思う。~(以下、略)~』
一読して、容疑者である両親への怒りがこみ上げてきましたが、
「AERA dot.(アエラドット)」の次の記事を読んで、自分の考えの浅さを反省した次第です。
『虐待に関する取材を続け、「児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか」(朝日新書)
などの著書があるルポライターの杉山春さんは
「良い親か悪い親かだけをジャッジするような社会では、虐待はより発覚しにくく深刻化する」
と指摘する。 ~ (中略) ~
杉山さんが違和感を持つのは結愛ちゃん本人が覚えたての平仮名で書いた
“反省文”を警視庁が唐突に公表したことやその報道の仕方だったという。
「なぜ、このタイミングの公表だったんでしょうか。
子どものいたいけない言葉は、人の心を掴みます。
しかし、それは同時に、親を責める声にすぐに変わっていく。
うまく子育てができない親を責める社会の声を私は感じてしまいます。
親が横にいて書かせたのか、どんな状況で書かれたものかわらかないけれど、
過剰に良い家庭でなければならない、良い子に育てなければいけないと
親も追い詰められていたことが見て取れます。今、子育てに苦しむ家族は
こうした情報の出方に苦しめられるのではないかとの不安も感じました。
この反省文を公表する場合、そこで起きる虐待の仕組みへの理解を促す報道も
同時に行われて欲しいと感じます」
杉山さんのこれまでの取材では、「どうしようもない親」「不真面目」という
社会的なレッテルに反して、虐待する親は「外から評価されたい」
「頑張らなければ社会に受け入れられない」と考えている
生真面目で弱みを見せられない孤独な人が多いという。』
この世の中から、不条理な事件や事故が無くならないのは、
それが「人間の弱さ」から生じるものである限り、どうすることもできないものなのでしょうか‥?
「胸が痛む」、「やるせない」の思いだけで、その先に思考が進まない自分に気づくと、
さらに「やるせない」気持になります。