今月9日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、
社会人類学者、ティム・インゴルドの『本とともに読みなさい。』という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『知るというのは、世界を操作するために知識を机上に蓄えることではなく、
環境の気配に耳を澄まし、知覚をはじめ世界を探るさまざまのわざの中へ分け入って、
世界の生成変化によりよく対応してゆくためのプロセスなのだと、社会人類学者は言う。
そういう「探求の技術」として、「知る」ことを「存在の中心」に置き戻す必要があると。
「メイキング」(金子遊ほか訳)から。』
いつも楽しみに読んでいる鷲田さんの連載コラムも、
今回の「ことば」と「解説」のように、その意味が分からず思い悩むときがあります。
たとえば、解説にある『「探求の技術」として、「知る」ことを「存在の中心」に
置き戻す必要がある』というのは、どういう意味なのでしょう?
それが冒頭のことばの『本とともに読みなさい。』と、どのようにつながっているのでしょう?
私がなんとなく理解できるのは、
『知るというのは、世界を操作するために知識を机上に蓄えることではない‥‥』
という個所ぐらいでしょうか‥‥。
これって、陽明学の「知行合一」と同じ意味と理解してよいのかしら?
ところで、話は変わりますが、
一昨日の11日から、七十二候の「腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)」が始まりました。
「草の中から蛍が舞い、光を放ち始める頃」で、昔は腐った草が蛍になると考えられていたそうです。
その蛍といえば、亡き母が、自分が嫁入りした頃には、
我が家のすぐ近くを流れる小川にも蛍が舞っていたと言っていました。
その小川に母は、毎日洗濯に行っていたということですから、昔は「清流」だったのでしょうね‥。
私が子ども頃に見た「懐かしき故郷の原風景」も、今のうちに孫娘に語り継いでおく必要がありそうです。