四国地方が今日、梅雨明けしたそうです。「豪雨」の後は「猛暑」です‥‥。
もうすぐ聞こえてくる蝉の鳴き声も、今年は悲しい響きに感じるかもしれません。
『精神社会、無関心な私たち』という論評を寄稿されていました。
とても考えさせられる内容だったので、
その要点を次のとおりこの日記に書き残しておきたいと思います。
・死刑制度の是非はべつにして、かくも重大な反社会的行為が身近で行われていた数年間
日本社会はいったい何をしていたのだろうか。
私たちはオウム真理教の何を恐れ、何を断罪したのだろうか。
教祖らの死刑執行を受けてあらためてそんな自問に駆られる傍らには、
教団の反社会性を看過し続けた私たちの無力と無関心、
さらには一方的なカルト宗教批判に終始したことへの自省や後悔が含まれている。
また、教祖らの逮捕から二十三年、日本社会がこの稀有(けう)な事件を
十分に言葉にする努力を放棄したままこの日を迎えたことへの絶望も含まれている。
・形骸化が著しい伝統仏教の現状に見られるように、
日本人はいまや宗教と正対する意思も言葉ももっていない。
この精神世界への無関心は、理性や理念への無関心と表裏一体であり、
代わりに戦後の日本人は物質的な消費の欲望で人生を埋めつくした。
地道な言葉の積み重ねを失ったそういう社会で、
若者たちの求めた精神世界が既存の宗教でなかったのは、いわば当然の結果だったと言える。
彼らは伝統仏教の迂遠(うえん)な教義と権威を拒否し、
手っ取り早いヨガの身体体験に出会って社会に背を向け、
疑似家族的なカルト教団に居場所を求めたのである。
・信心と帰依は信仰の本態である。
また信仰は本来、自身を守るための殉教や殺戮(さつりく)もあり得る絶対不可侵の世界であり、
もとより社会制度や通念とは相容(あいい)れないところで立っている。
オウムをめぐる言説の多くが生煮えに終わったのは、
信仰についてのそうした本質的な認識が私たちに欠けているためであり、
自他の存在の途絶に等しい信心の何たるかを、
仏教者すら認識していないこの社会の限界だったと言えよう。
・それでも、いつの世も人間は生きづらさを和らげる方便としての信仰を
求めることを止(や)めはしない。
オウム真理教が私たちに教えているのは、非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、
社会に正しく配置することの不断の努力の必要である。
う~む‥‥。(絶句)
私は信仰と宗教について、語るべきものを何も持っていないことに愕然とします。
高村さんが言われる「宗教と正対する意思も言葉ももっていない。」というのは、
このような私を指しているのでしょうか‥‥? もうすこし考えてみることにします。