昨日14日の日経新聞一面コラム「春秋」は、「ふるさと」に関する味わい深いコラムでした。
その全文を、この日記に書き残しておこうと思います。
『「血につながるふるさと 心につながるふるさと 言葉につながるふるさと」。
9歳で信州の馬籠を離れた島崎藤村はずっとのちに帰郷したとき、地元の小学校での講演でこう述べ、
しばし絶句したという。故郷への思慕をあらわして、これほどいちずな物言いはない。
人をそういう気持ちにさせるのが故郷というものだが、さて、目下帰省中の方々はいかがお過ごしだろう。
渋滞にあえいでようやく実家にたどり着いたのに、昔とは景色が違う、
親戚や旧友も変わったと落胆することもあろう。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」。室生犀星もこう詠んでいる。
もっとも、近年は地方を取り巻く現実がどんどん厳しくなり、故郷そのものの消失を招きかねない時代だ。
にぎやかだった商店街はゴーストタウンと化し、どこもかしこも空き家だらけである。
若者の姿はすっかり途絶え、先祖の墓には夏草が生い茂る。
久しぶりに老親と話しこんで、もしや認知症かと異変に気づく‥‥。
「ふるさとは語ることなし」。かつて坂口安吾は故郷・新潟に帰って色紙にこう記し、
日本海を望む文学碑にもこの言葉が残る。
突き放したような表現だが、そこには生まれ育った土地への万感の思いがこもっていよう。
いちいち語らなくても済む、たしかな故郷の存在――それがあったからこその名言であるに違いない。』
夏休みに神戸から関西汽船に乗って、故郷・愛媛まで家族で帰省したことを思い出しました。
父方の曽祖母や祖母、母方の祖父や祖母、そして、伯父・伯母、叔父・叔母、従兄弟・従姉妹たちと、
短いけれど濃密な時間を一緒に過ごしたことは、今でも忘れ得ぬ想い出です。
ところで、「ふるさと」といえば、『ふるさとを見せてあげたい』というシモンズの名曲があります。
♬ 春はかげろう麦畑 夏はひでりのせみしぐれ
秋はお祭り笛太鼓 冬はよなべのいろりばた
あの人にふるさとを見せてあげたいの あの人はふるさとのない人だから
大学卒業後、東京から故郷・愛媛に帰って早や40年‥‥。
今は、いろいろと気苦労も多いけれど、生まれ育った「たしかな故郷」に住むことは、
それだけで幸せなことなのではないかと、お盆の日に自覚した次第です。