今週17日の朝日新聞デジタル版「文化の扉」に、
『西田哲学、西洋との格闘~違和感を認め自己を追求、新資料に足跡』
というタイトルの記事が掲載されていました。
知の巨人、西田幾多郎(きたろう)(1870~1945)の哲学とはどういうものか、
簡潔で分かりやすい解説があったので、
この日記をメモ代わりにして、次のとおり書き残しておきたいと思います。
『西田の思索は40代以降、次第に西洋哲学の古典にさかのぼり、
認識論や存在論から歴史や宗教、日本文化を論じるようになる。
反省しつくせない自己の意識を「場所」と呼び、自己の中に自己を映し出す思考を、
欧米流の主観・客観の二元論を超えた「絶対無の場所」とみた。
晩年には対立、矛盾するものが全体としては同一性を保つ「絶対矛盾的自己同一」を唱えた。』
また、記事のなかで東洋大学学長で仏教学者の竹村牧男さんは、次のように述べられていました。
『西田のように「自己とは何か」について突き詰めて考えれば、
自己と他者の関係を考えることにつながります。
自己と神仏との関係、つまり宗教のあり方も主題になるでしょうし、
社会や歴史のあり方にも関係します。』
う~む、なるほど‥‥。
「自己」を突きつめると、必然的に「宗教」にもたどり着くものなのでしょうか‥‥?
そして、「西田哲学」の「無私の思想」とは何なのか‥?根源的な「無」とは何なのか‥?
いくら考えても凡人の私には「答え」は見つからないけれど、
少しでも思索しようとする行為が「哲学する」ということなのでしょうか‥‥?
???だらけです。
ところで、私はこれまでの人生で、北陸各県には一度も行ったことがありません。
いつの日か、かの地を訪れる機会があれば、