今日の朝日新聞デジタル版「耕論」は、「連帯責任を考える」というテーマでした。
誰かが問題を起こしたとき、仲間も責任を問われ、
罰せられることがある連帯責任について、その功罪を見つめ直してみるという内容で、
いつものように3人の有識者の方が持論を展開されていましたが、
私はそのなかでも、菊澤研宗・慶応義塾大学教授のお考えに興味を惹かれました。
少々長くなりますが、その全文を引用させていただきます。
『企業経営の現場、働く現場も連帯責任と無縁ではありません。それがどんな効果を生むのか。
制度論的に考えると問題が起こる前と後とで、がらりと様相が変わる点が特徴的です。
うまくいっている時は、各自が他人に迷惑をかけないように努力します。
相互に点検し、協力し合って失敗を減らすので、効率はよくなる。
そうした点は、この制度のプラス面と言えるでしょう。
でも、もしだれかがミスをすれば、全員が罰を受ける。
失敗していない仲間にも被害が及び、組織は危機に陥ります。
それを回避するため、組織的な隠蔽(いんぺい)が発生します。
そうなると、連帯責任はあしき制度になりさがる。
なぜそうなるのか。メンバーが機械のように損得を計算するからです。
ミスを公表して全員が罰せられるよりも、隠蔽した方が計算上は得だからです。
自分を取り巻く外部の状況を考慮し、損得に基づく行動は自分以外に原因があるので他律的と呼ばれます。
こんな集団に、みなで責任を負う仕組みを持ち込むと、危険だということです。
大事なことは人間力を発揮することです。損得を計算した上で、主体的に価値を判断する必要がある。
どんな組織でも、まずリーダーが目標やルールをきちんと説明し、
損得に加えて正しいかどうか、好きか嫌いか、メンバーに多面的に判断させるのです。
メンバーが主体的に受け入れていれば、たとえ目標やルールに不備があっても、
それを守る責任が各自に生じる。
ミスが起きても隠蔽することなく公表し、あえて罰を受ける覚悟ができるでしょう。
企業も同じです。長い歴史を持つ会社には、給与が高いからという打算だけでなく、
「この会社が好き」という社員が少なくありません。
そうした社員は、会社が赤字になっても退職することなく、
むしろ一致団結して会社のために頑張るでしょう。連帯責任は日本的な仕組みかもしれないですね。
個人主義的な欧米から見れば、異質に映るでしょう。
政治学的視点に立てば、連帯責任は個人を否定し、全体主義的なので「悪」に見えるかもしれません。
でも悪い面ばかりではないからこそ淘汰(とうた)されずに残っているのだと思います。
集団の中で働き、ときには自己を犠牲にし、ときには一人のミスのために全員で耐える。
非合理的に見えるかもしれません。しかし、そこに機械にはない人間的な魅力があり、美学がある。
この仕組みがプラスに働くには、リーダーはもとよりメンバー一人ひとりが即物的な損得計算だけではなく、
人間として主体的に価値判断し、その責任を取る自律的な存在であることが不可欠です。
とても興味深いテーマですね。』
う~む‥‥。(沈黙)
「組織的な隠蔽」は、本当にメンバーの「損得計算」に基づく行動なのでしょうか?
うまく言えないけれど、ちょっと違和感があります。
私は、個人の「損得計算」というよりも、組織としての「その場の雰囲気」や、
誰の責任かが明確に分からないような「責任の曖昧さ」にあるように思うのですが‥‥。
それは別として、この記述のなかの「集団の中で働き、ときには自己を犠牲にし、
ときには一人のミスのために全員で耐える。非合理的に見えるかもしれません。
しかし、そこに機械にはない人間的な魅力があり、美学がある。」という箇所を読んで、
ふと、清武英利さんの『しんがり~山一証券最後の12人』(講談社+α文庫)のことを思い起こしました。
日本型組織には、「責任の曖昧さ」と「自己犠牲精神」が同居しているような気がします。
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