一昨日11日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、
フランクルの『人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、
むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『強制収容所ではクリスマスと新年の間に多くの人が力尽きて死んだ。
クリスマスには帰郷できるという希望に身を委ねた末の落胆が、彼らを打ちのめした。
何かを期待するのではなく、何かを期待される者として自分を捉え直すことでしか
人は生き存(ながら)えられないと、同じ収容所体験をした精神科医は言う。
「夜と霧」(霜山徳爾訳)から。』
はぃ‥、フランクルのあまりにも有名な、かつ、とっても重たい言葉です。
私はといえば、何かを期待するばかりであったこれまでの人生‥‥。
もし私が同じ強制収容所に入っていたら、希望を失って真っ先に亡くなっていたと思います。
逆に、私は、これまで人から期待されることはあったのかな‥‥?
「自分とは何であったのか」を改めて考えさせられます。
ところで、話は変わりますが、一昨日は職場の忘年会でした。
県職員OBがほとんどを占める今の職場なので、その席では親の介護の話で盛り上がりました。
私と同じく、皆さんも、年老いた親の世話でご苦労をされているようでしたが、
親と同居しているのは私だけでした。
日々、自分の時間を削って親の面倒を見ていると、フランクルの言葉とは逆の意味で、
「私の人生は、誰のための、何のための人生なのか?」と恨めしく思う時があります。
私の親とは、本来、赤の他人である妻は、なおさらそう思っているのに違いありません。
こういうのも、「何かを期待される者」としての生き方なのでしょうか‥‥?
自分の一人娘には、同じような思いと苦労をさせないようにしたいのですが、
私のような人間に限って、人に迷惑をかけながら、生き在えそうな気がします。