昨日18日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、エミリー・ディキンスンの
『夏の日をくり返すことができる者は夏よりも偉大だ』という言葉で、
いつものように、鷲田誠一さんの次のような解説がありました。
『夏が終わっても人はその夏を描きなおすことができる。
日没の時も太陽の「ためらいと茜(あかね)色」を「もういちどつくる」ことができる。
いかにちっぽけな存在でもそこが偉大だと、19世紀米国の詩人は書く。
人生の黄昏(たそがれ)どきもたんに日没の季(とき)ではない。
老いて人は盛りを懐かしむだけでなく、その蜜汁をより濃く、より深く味わいなおす。
「ディキンスン詩集「(新倉俊一〈としかず〉訳編)から。』
う~む、なるほど‥‥。
「その蜜汁をより濃く、より深く味わいなおす」ですか‥‥。
それこそ、「味わい深い」言葉です。私にもこんな境地と境遇が訪れるのかなぁ~‥‥?
まぁ、もう少し希望を持って生きてみたいと思います。
そして、今日は、一昨日17日の産経新聞「正論」に掲載された
先崎彰容・日本大学教授の『いじめを論じて国の不毛を憂う』という論評のうち、
ジョージ・オーウェルの短編評論『ナショナリズム覚書』を引用された箇所を、
少々長くなりますが、この日記に書き残しておこうと思います。
これを読んで、「ナショナリズム」と「愛国心」の違いがよく分かりました。
『自分は、ナショナリズムと愛国心をはっきりと区別すべきだと考えている。
愛国心とは、自分を世界で一番よいものだと思いつつ、
他人へ強制はせず、自分の生活様式に献身しようとする心情のことである。
だから本来、愛国心は防衛的で慎(つつ)ましいものである。
ところが一方のナショナリズムは、正反対の心情である。
ナショナリズムの特徴は、何よりも「ただ何かに反対する」という心情であり、
相手を否定することだけに関心をもつ。
自分が今までよりもより大きな勢力、より大きな威信を獲得することだけに心血を注ぐ。
そして競争相手が少しでも褒められると語気を強めて反論し、
自分を批判されると感情的なまでに心をかき乱される。これがナショナリズムの特徴なのである。』
そして、これを受けて、先崎教授は、次のように述べられていました。
『興味深いのは、オーウェルが、自己肯定と他者否定に駆られるナショナリストが、
知識人に多いと指摘していることである。
その彼らはきわめて簡単に、自己を集団に埋没させてしまうともオーウェルはいう。
知識人はそれぞれが正しいと思う集団に自己を全面的に感情移入してしまう。
共産主義や反ユダヤ主義、トロツキストから平和主義まで、集団・共同体であれば何でもよい。
自分が理想視した集団に自己を埋没させ、それを絶対善だと思いこんでしまう。
相手陣営を打ち負かすこと、「否定」するエネルギーに全力を注入する。
こうした行為によって、自分たちが勝っていると「感じる」ことができれば満足なのである。
事実はどうでもよい。気分が高揚していることが大事なのだ‥。』
二日連続の出張で、新聞、というか、文字をほとんど読むことがありませんでした。
紙に書かれた文字が人間の思考と直結していることを、雰囲気として理解することができます。