今日7日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、作家・坂口安吾の
『限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『原子爆弾という、人間の制御を超える装置を発明するのは学問ではない、
「子供の遊び」だと作家は言う。おのれの限界をはみ出る「大ゲサ」な夢想にのぼせず、
せいぜい数十年しか生きられない有限な個人として、
みずから責任をとれるところでその義務を全うすること。そこに人の「戦い」がある。
人はそれに勝てずとも、負けはしないと。論考「不良少年とキリスト」から。』
鷲田さんの解説のなかの
「せいぜい数十年しか生きられない有限な個人として、
みずから責任をとれるところでその義務を全うすること。そこに人の「戦い」がある。」
というのは、重みのある言葉ですね‥‥。
この解説を読んで、以前、この日記にも書いたことがある
浅田次郎さんの小説「壬生義士伝」に登場する、次の言葉を思い出しました。
『男なら男らしく生きなせえよ。潔く死ぬんじゃねえ、潔く生きるんだ。
潔く生きるてえのは、てめえの分を全うするってこってす。
てめえが今やらにゃならねえこと、てめえがやらにゃ誰もやらねえ、
てめえにしかできねえことを、きっちりとやりとげなせえ。
そうすりゃ誰だって、立派な男になれる。』
「みずから責任をとれるところでその義務を全うする」と
「潔く生きるてえのは、てめえの分を全うするってこってす」には、
どちらも同じような意味があるように思います。
ところで、マイペースで頑固な私の父は、ごくごく普通の技術畑サラリーマンだったけれど、
よき伴侶に恵まれて、そして、コツコツと真面目そのものに働いて、
私(一浪一留)と弟(二浪)の二人を、薄給ながら大学まで行かせてくれました。
今日、夕食の際に見た父は、確かに「立派な男」の顔をしていたような‥‥?
私の思い過ごしかしら‥??(苦笑)