今日は、松山市が誕生して130年に当たる、記念すべき日だそうです。
昨日の愛媛新聞一面コラム「地軸」では、松山市大街道生まれで、
文部大臣や学習院院長を務めた、安倍能成(あべよししげ)の少年時代とその時代風景に触れた後に、
次のようなことが書かれていました。
『‥‥安倍は1883年生まれ。
松山市が89年12月15日に県内最初の市として誕生したのは、そんな風景のころの話だ。
当時の戸数7519戸、人口3万2916人と記録されている。それからちょうど130年。
あすは市内で式典やイベントが開催される。
戦災や幾度の災害にも見舞われてきた。大きな歴史の足元には、
そこで生まれ育った人たちの営為と記憶の集積があることも忘れてはなるまい。
「嬉しきも故郷なり。悲しきも故郷なり。悲しきにつけても嬉しきは故郷なり。」
正岡子規が残した一文を胸に、街と歴史、そして人々の思いを新たにしたい。』
この記事を読んで私は、松山市が中核市となった、2000年4月1日のことを思い出しました。
私はこの日付けで市町村課の行政係長に拝命されたのですが、
当日は確か土曜日で、正式に辞令も受け取っていない状態で、
市庁舎で行われた記念式典に参加したことを覚えています。
(「参加」と言っても、総務部長を指定席に案内する役目でした。)
この日を境に、市町村合併の推進、住基ネットの構築、国政選挙や知事・県議選挙の執行など、
多忙な4年間を過ごすことになろうとは、その時には思いも寄りませんでした。
ですから、コラムに書かれていた「営為と記憶の集積」というフレーズは、
松山市民でない私にも、ちょっと感慨深いものがありました。
いゃあ~、それにしても、最後に松山市ゆかりの正岡子規の一文を引用したことで、
偉そうなことを言って恐縮ですが、このコラムは、一気に格調高い文章になったと感じた次第です。