今日は吹く風が冷たく、3月としては寒い一日となりました。東京では雪が降ったそうです。
さて、『西田幾多郎の思想』(小坂国継著:講談社学術文庫)を読了しました。
『聖の青春』(角川文庫)と同様、娘が我が家に残していったもので、
おそらく大学生時代に購入したものと思われます。
最初の数ページだけアンダーラインが引いてありましたが、その後は読んだ形跡がありませんでした。(苦笑)
ただ、内容が高度で難しく、娘が途中で断念したのもよく分かります。
以下、本書で特に印象に残った箇所を、いくつか書き残しておきます。
・西田は、ある著作のなかで、「古来、哲学と称せられるものは、
何等かの意味において深い生命の要求に基づかざるものはない。
人生問題というものなくして何処に哲学というべきものがあるであろう」(「生の哲学について」)
と書いているが、それは彼の深い体験からほとばしり出た真実の言葉のように思われる。
・とかく、われわれは目にみえるものを実在と考えがちであるが、
西田はむしろ目に見えるものの奥底にある目に見えないものを根本的な実在と考えている。
・‥こうして「善の研究」においては、実在と真理と善と美の一致が説かれる。
竹は竹、松は松と各自その本性を発揮した時、美であるように、人間も各自がその天分を発揮した時、
美である。また同時に、それは善であり、真でもある。
・人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという。
しかしこれが親にとっては堪えがたき苦痛である。
時はすべての傷を癒すというのは自然の恵みであって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、
一方より見れば人間の不人情である。
何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが
親の誠である。(「国文学史講話」の序」)
・西田幾多郎という人物の経歴を辿ってみて、われわれがもっとも強い印象をうけるのは、
おそらくその意志の強靭さだろうと思われる。
この意志の強さは同時に熱烈な求道心と結びついている。
それは現代人がとっくに失ってしまったものであった。
本との出合いは、人間の出会いと同じく運命的な側面があり、
もし娘が、この本を我が家に残していなければ、私はこの良書と出合うことはなかったのかもしれません。
そういう意味では、娘に感謝したいと思います。
ただ、娘には、この本を最後まで読み通す「意志の強靭さ」がなかったことが、残念でなりません‥‥。
ひっとしたら、本好きな孫娘が将来、この本に興味を示すかもしれないので、大切に保存しておきます。
- 作者:小坂 国継
- 発売日: 2002/05/10
- メディア: 文庫