しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「努力」について考える

今日23日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、美術家・横尾忠則さんの

「強制的にさせられる努力は、もろいのです。」という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『学校で、あるはずの正解にいかに速く到達するかばかり考えていると、

 「答えがない状態」に直面した時、どうしたらいいかわからなくなると美術家は言う。

 義務としてなす努力は潰(つい)えるのも早い。

 努力は遊びとして楽しむところがないと、いざという時生きてこない。

 結果を考えず「向こう見ずにやってしまうと、他人も力を貸してくれるもの」だとも。

 「死なないつもり」から。』


う~む‥‥。「義務としてなす努力」はあると思うけど、

「強制的にさせられる努力」というのは、そもそも「努力」と言えるのかしら‥‥?

その一方で、「遊びとして楽しむ努力」も、「努力」とは程遠いような気がしてなりません。

私は、自分の夢や目標を実現するために、あるいは、為すべき義務を果たすために、

「報われないかもしれないと知りつつ汗をかく」のが、「努力」の本来の意味だと思っていました。


ちなみに、「新明解国語辞典(第七版)」で「努力」を検索すると、

「ある目的を達成するために、途中で休んだり怠けたりせず、

持てる能力のすべてを傾けてすること。」という解釈がありました。ご参考までに‥‥。