しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「自由」をめぐる困難な問い

先月30日に産経新聞電子版「正論」に掲載された、

先崎彰容(せんざきあきなか)・日本大学教授の執筆による

『コロナ禍と「自由」をめぐる問い』というタイトルの、次のような論評を読んで、

深く考えるところがありました。

長くなりますが、とても大切なことが書かれていると思うので、その全文を引用させていただきます。


『「アベノマスク」をめぐる狂騒曲は一段落した気配だが、相変わらず10万円一律給付については、

 自治体毎(ごと)の遅速の差が報道されるなど混乱は続いている。

 理由は簡単でオンラインで申請したとしても、データを紙に印刷し、

 住民基本台帳とにらめっこして確認し、時間を浪費しているのだ。

 オンライン申請まではデジタル化できた。

 でもその先は驚くべき前時代的な人海戦術に委ねられている。
 
 泥縄式の作業を必死で行う公務員の姿は、戦争末期に粗悪な飛行機を死に物狂いで生産し、

 竹やり戦術の練習に明け暮れた国民と同じである。

 なぜなら米国が社会保障番号制度を使い2週間たらずで給付金を振り込んでいる時代に、

 わが日本は紙をめくる作業に忙殺されているからだ。

 戦前の国民もコロナ時代の公務員も、一人ひとりは異常なまでに頑張っている。

 でも力の使いどころが違う。

 行政組織全体を変えないで、公務員の自助努力を叫ぶのは、あまりにも典型的な精神論ではないか。


 ところで給付が遅々として進まない中で、

 ようやく「マイナンバー制度」と銀行口座の紐(ひも)づけが検討され始めた。

 マイナンバー制度の普及率は10%台に留まり、今回のような緊急事態時こそ機能すべき制度は、

 混乱を助長することだけに役立っている。

 導入を早期に検討すべきだ、という意見が聞かれる一方で、

 判で押したように「国家によるプライバシー侵害と個人資産の把握」を警戒せよ、

 という議論が新聞を賑(にぎ)わす。

 この典型的な導入と批判の二項対立、政府=善=導入と政府=悪=警戒の図式に、

 私たちは正直、飽き飽きしているのではないか。

 以下、筆者が述べたいのは、新型コロナ禍とマイナンバー制度という具体的な問題を、

 いわば文明論的に論じてみたいということである。


 今回のコロナ禍で、最も顕著な損害を被ったのは、自営業と非正規雇用の人たちであろう。

 外食するという生活スタイルが消滅し、居酒屋等の外食産業は瞬く間に窒息した。

 また夜の街での飲食接待で働く人の多くは、時給は高いものの非正規雇用

 すなわち時給制で働いていた。

 最後まで自粛要請の対象となるこうした分野には、様々な事情を抱えた男女が働いていることも多く、

 雇用の消滅は即座に生活危機に直結するはずだ。

 
 例えば子供3人を抱えた単身の親が、1週間後の自分の通帳に

 「40万円」の記載を見たときの安堵(あんど)感は、

 金銭的な救いだけでなく精神面の安定をもたらすに違いない。

 40万円が子供の虐待を防ぐかもしれず、

 長い自宅待機の時間をつぶすおもちゃを買えるかもしれない。

 つまりマイナンバー制度と銀行口座を紐づけすることは、

 最も弱い立場にある人たちの経済的かつ精神的な「自由」を守ることにつながるのだ。


 ところがわが国は2009(平成21)年、リーマン・ショックを受け

 定額給付金をめぐる混乱を経験し、マイナンバー制度導入に踏み切ったにもかかわらず、

 プライバシーの侵害という言葉に拘束され、結局、今日にいたるまで普及することも、

 銀行口座と紐づけることもできなかった。

 この風潮の背後には、個人の権利を重んじ、

 国家権力から拘束を受けることを拒否したいという心理があったことは間違いない。

 
 つまり、今回の新型コロナ禍が私たちに突きつけた課題とは、

 「自由」をめぐる困難な問いなのである。

 私たちは平穏な日常生活を淡々と続けられることを「前提」に、

 私権の侵害などもってのほかだと言ってきた。

 しかしそこで求める自由は、日常生活が反転し、平穏が瓦解(がかい)し、

 非常事態に陥った際、都会の片隅で給付金40万円の支給を待つ一人親家族を、

 2カ月以上にわたり路頭に迷わせることを「前提」とした自由なのだ。

 だとすれば私たちの目の前にあるのは平時にあらゆる束縛を拒絶し叫ばれる自由と、

 非常時に即座に40万円を確保できたことで得られる「自由」なのである。


 私たちが勘違いしているのは、人間には完全な自由が存在するという妄想である。

 自由には必ず義務や拘束、すなわち制限が伴うものだ。

 そしてプライバシーを絶叫する自由と、非常時に弱者が飯を食い、

 虐待を防ぐための「自由」のうち、いずれを選ぶのかということは、

 結局はその国の国民の価値観、つまり文化や死生観に関わるものなのである。


 現在の日本国民は、非常時に多少の犠牲などお構いなく、

 弱者の困窮を見過ごしてでもなお死守したいプライバシーを抱えているのだろうか。

 あるいは逆に、私権の一部を供したとしても、アパートの隣に身を寄せ合う4人家族が飯を食い、

 おもちゃを買い、泣き声ではなく笑い声が聞こえてくる光景の方を望むのか。
 
 私個人は後者のような「自由」に基づく死生観をもった人間でありたいと思う。

 新型コロナ禍とマイナンバー制度を文明論的に論じるとは、以上のような意味だったのである。』


う~む、なるほど‥‥。

「自由には必ず義務や拘束、すなわち制限が伴うものだ。」という御指摘は、

そのとおりだと思いますし、私もまた、先崎教授と同じように、

後者のような「自由」にもとづく人間でありたいと思っています。


余談ですが、NHKテキスト「100分de名著」の7月号は、『吉本隆明共同幻想論』で、

今、私は、この難解な思想をなんとか理解しようと、時間をかけて読み進めているところなのですが、

このテキストの著者が先崎教授です。明日からのテレビ番組も楽しみに視聴したいと思っています。