しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

知的刺激を受けたテキスト

NHKテキスト、100分de名著「吉本隆明共同幻想論」を読了しました。

テキストの執筆者は、先崎彰容・日本大学危機管理学部教授です。


共同幻想論は、「人はなぜ信じてしまうのか」という問いに深くとことん向き合った戦後最大の思想家、

吉本隆明による格闘の記録だという、テキストの紹介文がありました。

そのテキストのなかでも、特に印象に残ったのは、次のような先崎教授の解説でした。


『‥‥人間は平和な家庭の主人として衣食の満足を与えるために、

 実は相撲と同じ緊張を感じながら日々を過ごしている。

 つまり日常生活とは、自然や社会はもちろん、

 身近な妻子ですらも、四つに組まなければならない敵なのです。自分自身すら敵なのかもしれない。

 生きるとは力を込めて組み続けることであり、笑顔の時にすら背後に殺気を隠しています。

 生涯四つに組んで大汗を流し、最後は疲れ切って死んでいくこと、これが人間の本質なのではないか。

 漱石はこの事実に打ちのめされ、溜息をつくように、人間は神経衰弱になるしかないと言いました。

 しかし吉本は漱石の作品に、むしろ大衆の原像を読み込んだのです。

 日常生活、と私たちは比較的簡単に言うだろう。

 だが容易どころか緊張の連続、少しでも力を抜けば瓦解するものだ。

 生活とは、秩序を支え続ける不断の営みのことではないのか。

 子を産み、子を育て、老いた親を看取り、そして自分もまた老いて死んでいく。

 ただそれだけのことの中に、ささやかな、誠にささやかだが劇的な一人の人生が隠されているのではないか。

 一人に一つ、かけがえのないドラマがある。

 それは知識人に操られ群衆化するのとはちがう、地に足のついた匂いも手ざわりもある生活実感のことです。

 平凡が非凡であること、非凡な営みに支えられて、

 ようやく日常という秩序が成り立っていることに気づくこと。

 この「気づき」を吉本は「裂け目」と名づけ、自立するための根拠だと強調しているのです。』


『‥‥以上のように、個人幻想の特徴をさぐる最中、

 吉本が夏目漱石「思い出す事など」や小林多喜二「党生活者」など

 文学を素材とし、論じていることが重要です。

 吉本が行おうとしていたのは、「あるべき文学の姿とはなにか」を論じることでもあったのです。

 文学とは、徹底的に個人の人生にこだわる営みである。

 逆に言えば、徹底的に政治的に人間を見ることへの、ことばによる抗いである。

 人間をマッスとして取り扱い、自分の政治目的に利用できるという考えを「技術主義」と名づければ、

 技術主義こそあらゆる共同幻想が隠しもつ毒である。

 解毒はことばによって、生活の「裂け目」を描くことによってなされるのだーー

 これこそが吉本のメツセージであり、個人幻想だと私は思うのです。』


共同幻想」、「対幻想」、「個人幻想」、「観念の運河」、「関係の絶対性」、「人間の全範疇」、

「沈黙の有意味性」、「大衆の原像」‥‥。

難しい言葉が次から次へと登場して、おそらく私はその半分も理解していないと思うけれど、

先崎教授の丁寧な解説のおかけで、知的な刺激と興奮を十分に味わえたように思います。

ぜひ次は、原文にも挑戦してみたいです。

(そう思って買った、丸山眞男鈴木大拙などの本は、何年たっても積読状態です‥‥。)