今日の日経新聞「NIKKEI The STYLE」に掲載された
『「暗」から「明」へ反転した死生観~正岡子規「仰臥漫録」をたどる』を興味深く読みました。
記事によると、明治34年10月13日付けの「仰臥漫録」で自死をほのめかしたり、
同年11月6日にロンドン留学中の親友、夏目漱石に送った手紙に、
「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ‥‥
実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。」と書いていた子規が、
明治35年6月2日付けの「病牀六尺」では、
「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」とか、
同じく7月26日には、
「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」
と書くようになったとのことでした。
明治34年10月、自死をほのめかした「暗」から、
死の直前の「明」への心の反転は、なぜ起きたのか。
長年、子規の研究をされている3人の方の見解は次のようなものでした。
長年「仰臥漫録」を眺めてきた虚子記念博物館の学芸員、小林祐代さんは、「ストレス解消名人説」。
子規のいとこで、妹、律の養子になった正岡忠三郎の次男で庭園設計家の正岡明さんは、「前向きな情熱説」。
そして、記事の最後には、次のように書かれていました。
『多くの人がコロナ禍の暗いトンネルの中で不安を深めがちだ。
そんな時代だからこそ、子規の「暗」から「明」への死生観の転換に学ぶべき点があるのではないか。』
う~む‥‥。
郷土が生んだ偉人・正岡子規の「如何なる場合にも平気で生きて居る事」という境地は、
小心者の私には、到底、その達成を実現できそうにありません。
ちなみに、『日めくり子規・漱石~俳句でめぐる365日』(神野紗希著:愛媛新聞社)の
昨日8月8日の掲載句は、子規の死のひと月前の句、「病間や 桃食いながら 李(すもも)画(か)く」
‥‥でした。