しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

レジリエンスを鍛える

今日は8月13日です。仕事から帰宅後に、庭で迎え火を焚いて、ご先祖様をお迎えしました。


さて、日経新聞の「文化欄」では、「戦後日本の行方」の連載が続いています。

昨日はその5回目で、文化人類学者の上田紀行さんが、

「死と向き合う 苦しみ分かち合う心 今こそ」と題して、次のようなことを書かれていました。


『相次ぐ自然災害によって私たちは、誰にとっても死は隣り合わせであることを思い知らされた。

 今、コロナ禍で世界中の人々が同じように苦しんでいる。

 毎日のように積み上がっていく「感染者数」「死者数」は決して他人事ではないはずだ。

 英語に「慈悲」「思いやり」を意味する「compassion」という言葉がある。

 これはキリスト教の「受難(passion)」に「共に」を表す接頭辞「com」がついたものだ。

 まさに今、他者と苦しみを分かち合い、思いやる精神が求められている。

 そうした精神を培っていく上で、どのような形であれ儀式として葬儀の重要性は高まるのではないか。

 死にしっかり向き合うことで、本来、人間は一人ひとりがかけがえのない存在だと知ることができる。

 資本主義化やグローバル化の進展で、職場でも学校でも効率性ばかりが追い求められている。

 私たちはいつでもほかの誰かと取り換えられるのではないかとおびえ、

 いじめやリストラで居場所を失えば、生きる意味さえないのではないかと考えがちだ。

 だが、決して人は交換可能な存在ではない。

 そのことを実感するためには、職場や学校、あるいは家庭のほかに、

 様々な自分の居場所を積極的に作ることだ。

 たとえ今いる場所がまるごとなくなっても、まだ生きられる別の場所を持っている人は強い。

 プランAがダメだったら、プランB、Cと移行できるしなやかな強さ。

 一人ひとりが「レジリエンス」(回復する力)を鍛えることが一層求められていくだろう。』


う~む‥‥。(沈黙)

「様々な自分の居場所を積極的に作ること」ですか‥‥。

職場と家庭のほかに居場所のない私は、

来年3月に再就職先を退職すれば、居場所は家庭だけになってしまいます。

その安らぎの場所であるはずの家庭でも、「粗大ゴミ」扱いされて、「家庭難民」になりかねません。


「生きられる別の場所を持つこと」‥‥。私には深刻な問題です‥‥。