しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

責任からの解放

今日も暑い一日となりました。

しかも、湿度が高かったせいでしょうか、汗がべとっと身体にまとわりついて、

どう表現したらいいのか分からないほど、不快感を伴う暑さとなりました。


さて、昨日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、社会学者・田野大輔さんの

「権威への服従が人びとの責任感を麻痺(まひ)させ、残虐な行動に走らせる。」という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


ナチス時代のユダヤ人迫害から現代の酷薄な差別発言まで、

 人はなぜ「正義」を装い、嬉々(きき)として少数者を排撃するのか。

 ポイントは、権威を後ろ盾にした「責任からの解放」にあると社会学者は言う。

 つまり責任を負うべき〈顔〉を隠せること。

 匿名でしか声を出せない人は、他者を属性でしか見られない。

 何より自身がもはや属性でしかないから。「ファシズムの教室」から。』


う~む、なるほど‥‥。

この言葉と解説を読んで、NHKテキストの100分de名著「吉本隆明共同幻想論」で、

先崎彰容・日本大学危機管理学部教授が、次のようなことを述べられていたことを思い出しました。


『‥‥不安に襲われている私たちは、真偽不明の情報に翻弄され、

 「多忙な時代」をさらに助長してしまう。生活のリズムを取り乱し、浮足立ちはじめる。

 するとどうなるのか。吉本が恐れていた事態が起きるのです。政治的なものが台頭してしまうのです。

 私たちは瞬間的なつながりによって不安を糊塗しようとします。

 一方でこの機に乗じて人々をマッスとして取り扱い、

 自分の都合の良い方向に動員しようとする人がでてくる。

 何かを「信じて」安心したい私たちは、この政治的動員の誘いに乗ってしまう‥‥。』


どちらも、意味するところは同じ警句だと、私は受け止めたのですが、違うのかしら‥‥?