今日も暑い一日となりました。
しかも、湿度が高かったせいでしょうか、汗がべとっと身体にまとわりついて、
どう表現したらいいのか分からないほど、不快感を伴う暑さとなりました。
さて、昨日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、社会学者・田野大輔さんの
「権威への服従が人びとの責任感を麻痺(まひ)させ、残虐な行動に走らせる。」という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
人はなぜ「正義」を装い、嬉々(きき)として少数者を排撃するのか。
ポイントは、権威を後ろ盾にした「責任からの解放」にあると社会学者は言う。
つまり責任を負うべき〈顔〉を隠せること。
匿名でしか声を出せない人は、他者を属性でしか見られない。
何より自身がもはや属性でしかないから。「ファシズムの教室」から。』
う~む、なるほど‥‥。
この言葉と解説を読んで、NHKテキストの100分de名著「吉本隆明~共同幻想論」で、
先崎彰容・日本大学危機管理学部教授が、次のようなことを述べられていたことを思い出しました。
『‥‥不安に襲われている私たちは、真偽不明の情報に翻弄され、
「多忙な時代」をさらに助長してしまう。生活のリズムを取り乱し、浮足立ちはじめる。
するとどうなるのか。吉本が恐れていた事態が起きるのです。政治的なものが台頭してしまうのです。
私たちは瞬間的なつながりによって不安を糊塗しようとします。
一方でこの機に乗じて人々をマッスとして取り扱い、
自分の都合の良い方向に動員しようとする人がでてくる。
何かを「信じて」安心したい私たちは、この政治的動員の誘いに乗ってしまう‥‥。』
どちらも、意味するところは同じ警句だと、私は受け止めたのですが、違うのかしら‥‥?