しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

われ以外みなわが師匠

今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、ロバート・キャンベルさんの

『楽しくほっこりするだけではなく、時には簡単に答えを出さず、

 対立したまま別れることができる公共空間がほしい。』という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『共感は大事だが、「そうよそうよ」「あるある」というふうに

 漠と湧く共鳴には人の心を攫(さら)うところがあると、日本文学研究者は言う。

 地域でも政治でも「根拠という杭」なき共鳴が最も危うい。

 批評家・若松英輔との対談「“弱さ”に向き合うちからを」

 (婦人之友社編集部編『コロナと向き合う 私たちはどう生きるか』所収)から。』


う~む、なるほど‥‥。「根拠という杭」なき共鳴が最も危うい‥‥ですか。

逆に言うと、共鳴には「根拠という杭」が必要なこともあるのですね。


ところで、鷲田さんの解説の中で、「攫(さら)う」という漢字がありました。

さっそくネットの「weblio辞書」で調べてみると、次のような解説がありました。

1 油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。

「波に足を―・われる」「子供を―・う」「鳶(とんび)に油揚(あぶらげ)を―・われる」

2 その場にあるものを残らず持ち去る。関心を一人占めにする。「人気を―・う」


「波に足をさらわれる」など、普段何気なく使う言葉が、こんな漢字だとは知りませんでした。

今日も一つ、貴重な勉強をさせてもらいました。「われ以外みなわが師匠」です‥‥。