『東條英機~「独裁者」を演じた男』(一ノ瀬俊也著:文春新書)を読了しました。
中学、高校の歴史教科書で習った歴史史観を、ほぼ90度近く転換させるような内容でした。
著者は、本書の「おわりに」で、次のようなことを書かれていました。
『航空戦の「総帥」たらんとして結果的に失敗し、敵の空襲で国を焦土と化した東條を批判するのは簡単だが、
彼のやり方を戦時下の国民はどうみていたのか、という視点もあってよいはずである。
その国民の少なくとも一部の間には、唯一の軍事指導者とみなす意識があった。
東條への批判も、よく読めば航空戦・総力戦の指導者として適格か否かをめぐって
繰り広げられていたのである。
だが完膚なきまでの敗戦、国民生活の崩壊とともに「総帥」としての東條は忘れ去られた。
東條自身は、古い‥‥それこそ同時代の重光葵からみても古い、大東亜共栄圏の思想に殉じて死んだ。
後に残ったのは、国民に竹槍での無謀な戦いを強いた愚かな指導者としての記憶だった。』
「開戦責任を全部東條に押しつけるという重臣たちの策謀と議会の反発‥‥」
東條英機という軍人の、戦争指導者としての責任を、否定するつもりは毛頭もありませんが、
いや、それにしても、戦後75年が経過しても、この国と国民の「責任転嫁とでもいうべき体質」は、
当時と何ら変わりがないことを知り、愕然とした次第です‥‥。