今月3日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、労働経済学者・玄田有史さんの
「勉強っていうのは、わからないということに慣れる練習をしているんだ」という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『勉強して将来何か役に立つことってあるのかと、ある中学生から質問された労働経済学者はこう答えた。
作戦や戦略を考えてうまくいくのは社会の筋道がよく整備されている場合だけ。
実際の社会はもっともつれ、つかみどころがない。
スポーツや演奏と同じで、「まだよくわからない」ともがきつつも、
そのわからなさを面白がる中に道は開けてくると。「希望のつくり方」から。』
このコラムを読んで、甥っ子が中学生の頃、
私も同じような質問をされて、答えに窮したことを思い出しました。
その甥っ子も、今では「女房・子供持ち」の、立派な社会人となっています。
ところで、「希望のつくり方」には、こんなことが書かれていましたっけ‥‥?
はぃ‥、久しぶり本棚から本を取り出してページをめくってみると、こんなことも書かれていました。
『希望も同じです。希望なんて、考えても考えても、つかみどころのない、わからないものです。
でもわからないからこそ、おもしろい。
希望という視点から社会を考えることで、新しい見方ができる可能性があるからです。
~(中略)~
私自身が希望学から学んだことの一つは、「わからない」から逃げないことの大切さでした。
そしてそれこそが、勉学や学問の意味だということを、あらためて思い知らされた気がしています。』
「かつて、希望は前提だった。」
このように思える社会を、今こそ、なんとしても皆で取り戻さなければならないと、
コラムを読んで切に感じた次第です‥‥。
- 作者:玄田 有史
- 発売日: 2010/10/21
- メディア: 新書