阪神・淡路大震災から26年となった今日17日、
日経新聞一面コラム「春秋」と朝日新聞一面コラム「天声人語」は、
奇しくも、それぞれのコラムニスト氏の、当時の取材経験を振り返る文章で始まっていました。
『26年前のきょう、夜勤で東京本社に泊まっていた。
早朝、枕元の電話が鳴った。気象庁の災害専用回線を取ると関西地方で大地震が発生した、
との一報である。眠気が吹き飛ぶ。神戸に向かった。
倒壊した阪神高速道路が塞いだ道を迂回し、現地に着いたのは夜だった。
「父さんは無事。近所の様子を見に行く」。阪神大震災の取材で最も心に残る光景は、
避難所の学校の掲示板にはられたおびただしい被災者の手書きの伝言だった。
家屋の下敷きになりながら命を取り留めた約3万5千人のうち、近隣住民らに救助された人は8割弱。
消防や自衛隊の初動の遅れを救ったのは普通の人々だ。‥‥』
『あの日を思い出すと、いまもいたたまれない気持ちになる。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災。私は東京から神戸の警察署に電話取材をしていた。
夜になったころだ。混乱の中で言ってしまった。「被災者の資料をFAXしてもらえませんか」。
しばらくの沈黙。諭すように言葉が返ってきた。
「記者さん、そりゃ無理です。電気が止まって、ろうそくの火で読んでいるぐらいですから」。
ハッとして受話器の前で何度も頭を下げて謝った。
あの人はいま、どうしているだろうか。当時の私には警察署が停電したままの大災害が想像できなかった。
後の現地取材で知ったのは警察も甚大な被害を受けたということ。
庁舎が崩れ、生き埋めになった人もいた。‥‥』
はぃ‥、それぞれのコラムニスト氏は、
このような取材経験を踏んで、今のポジションに就かれているのですね‥‥。
市井の人に寄り添う文章を書くことのできる、一面コラムニストとしての「資質」と「資格」というものを、
今日のコラムに垣間見たような気がしました。