今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、哲学者アルフォンソ・リンギスの
「要請されているのは、きみがそこにいて語るということである。」という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『語りは何かを語ることであるが、ときに語られる内容ではなく
語りかけることそのことが決定的に重要な場面があると、哲学者は言う。
逝く人の傍らに座す時。
逝く人の手に添って送る人の手と声が伸びゆくこと。独りで逝かせないこと。
死は逝く人のものでも看取(みと)る人のものでもない。その間に起こる出来事である。
「何も共有していない者たちの共同体」(野谷啓二訳)から。』
う~む‥‥。(沈黙)
「独りで逝かせないこと。」‥‥。今日のこの言葉には、正直言って、心底、動揺しました。
慢性気管支喘息の持病があった母は、平成8年7月に62歳で急逝しました。
「母の死に目に立ち会えなかったこと」、「独りで逝かせてしまったこと」は、
私の人生のなかでも「痛恨の極み」の最たるものです‥‥。
「親孝行、したい時には親はなし」とは言いつつ、
私と同居している、母の連れ添いである父は、今年の4月には93歳になります‥‥。
人の世の不思議‥‥。「人の一生を語る」ことは、とても難しいものがあります。