今日の日経新聞「オピニオン」欄、「核心」の記事が興味深かったです。
芹川洋一・論説フェローは、菅政権崩壊の理由が、「政権成立の理由そのものの中にあった」として、
次のように述べられていました。
『‥‥第1は、無派閥だから生まれて、無派閥だから終わった政権という点だ。
安倍前首相の退陣表明のあと派閥がすくみ合う中、菅氏が急浮上したのは、
どの派閥も乗りやすい無派閥だったからだ。
ところがその利点は政権を維持していくうえで徐々に弱みに変わっていく。
ゆるやかな支持グループはあるもののほとんど力のない面々だ。
官房長官や党執行部に、権力闘争のベクトルが同じ派閥やグループのメンバーはいない。
調整は菅氏の個人的な関係に頼るしかなかった。支えるものなき悲劇である。
第2は、官房長官だから首相になって、官房長官のままだったから終わった政権という点だ。
内閣の大番頭として7年8カ月にわたって政権を支え、手腕を発揮していたため、
突然の退陣となった前任者の後継者として党内外でもすんなり受け入れられた。
しかし残念ながら、御厨貴東大名誉教授のことばをかりれば、官房長官から首相に化けきれなかった。
「菅内閣には菅首相がいなかった」。ナンバー1と2ではおのずと立ち居振る舞いも発言も違ってくる。
分を越えると悲劇が待っている。
とくに安倍前政権のようなチームができなかったのが痛かった。政権はひとりでは回せない。
しばしば「情報が首相にあがっていない」といわれた。コロナで外部との接触機会が減ったのも響いた。
第3は、官僚との関係だ。内閣人事局ができて官邸が各省の幹部人事を
チェックする仕組みとなったのだから、さまざまな面で関与するのは間違っていない。
しかしやり過ぎはなかったか。
安倍―菅政権で、霞が関が官邸からの指示待ち型になったと官僚OBをはじめ関係者は異口同音に指摘する。
「意に染まない情報や望まない案をあげると機嫌をそこねて、けがをする」
といったムードが広がったのは否定できないところだ。
官邸主導人事だから官僚を掌握し、
官邸主導人事だから官僚が動かなくなったという逆回転がここでもおこった。これも政権の悲劇だった。
政権をうみだしたものや、権力の源となったものがブーメランとなって
自らにはね返ってくる皮肉な展開になった。そして悲劇が悲劇をよぶ。‥‥』
う~む、なるほど‥‥。
「支えるものなき悲劇」「分を越えた悲劇」「やり過ぎた悲劇」ですか‥。
芹川さんは、この論評の最後に、「政治は皮肉で冷酷なものである」と書かれていました。
政治の本質を鋭く突いた言葉のように私は感じました。