春の予感を感じた昨日と打って変わって、今日は強く冷たい風が吹いて、凍えるような寒さとなりました。
やはり、自然はこちらが思うようにはいきません。世の中もそうですが‥‥。
さて、定期購読している岩波書店「図書」2月号に、「ドストエフスキーと現代日本」というタイトルで、
ロシア文学者の亀山郁夫先生と小説家の中山文則さんとの対談が掲載されていました。
そのなかで、中村さんが次のようなことを述べられていました。
『‥‥亀山さんが今回出された「ドストエフスキーとの旅」(岩波現代文庫、2021年10月刊)
という本の中でお書きになった、亀山さんがテーマにしている「黙過」という、
ドストエフスキーの、いろんな悪を黙って見過ごすという悪のことで。
その「黙過」というものを、自分もしているのではないか、とある‥‥。
世の中に出現するいろんな悪について、そういったすべてのことに対して自分は罪があるのではないか、
そういう謙虚な気持ちで生きていく、というところに僕はすごく感動して。
つまり、「黙過」は悪というものの発見ですが、悪の発見が善につながっているわけですよ。
自分の悪を発見することによって、謙虚な生という善を生む。
この善と悪とのダイナミズムが、まさにドストエフスキーの世界だと。
僕はこの本が単行本で出た時も読みましたけど、
あの時からさらにいろいろなエッセイが付け足されて完成され、
大変素晴らしい文庫本になったな、と思って。
なんというか‥‥、ドストエフスキーの翻訳や様々な文学研究によって敏感になった肌感覚で
世界と接する面白さ、とでもいうんでしょうか。
たとえば亀山さんが海外に行くと、様々な文化や芸術に触れているから、
旅先のシーンでの感動が二倍も五倍にもなる。つまり、知識というものが人生をこれだけ喜びで満たすのか、
というところも面白くて。』
この記述中の「黙過」という言葉から、先日、電車内で喫煙を注意した高校生が、
相手から暴行を受けて顔を骨折する大けがをした事件を思い出しました。
15分にわたって暴行を受けたけれど、助けに入った乗客はいなかったそうです。
もし自分が乗客だったら‥?
小心者の私は、その時の乗客と同じように、何もできなかったのではないとか思うと、
自分にも罪があるのではないかと感じた次第です。
中村さんがおっしゃっているように、
「自分の悪を発見することによって、謙虚な生という善を生むこと」が、私にもできるものなのでしょうか‥?
いろいろと考えてしまいました。