冷たい雨がしとしとと、終日降り続いた一日となりました。ひさしぶりのまとまった雨です。
さて、『千夜千冊エディション 神と理性 西の世界観I 』(松岡正剛著:角川ソフィア文庫)を読了しました。
読む順序が逆になってしまいましたが、
『千夜千冊エディション 観念と革命 西の世界観II』を読了してから、約1年ぶりとなります。
この本で取り上げられていたのは、プラトン、アウグスティヌス、マキアヴェリ、ライプニッツ、
ルソー、エドマンド・バークなど、いずれも聞いたことのある人物ばかりです。
本書の中でも特に印象に残ったのは、モンテーニュ「エセー」について書かれた、次のような記述でした。
『‥‥ところが、この親友はわすが三十歳そこそこで疫病に倒れて死んだのである。
モンテーニュがこの友人から受けたものは格別だった。
「ラ・ボエシーと付き合った四年間にくらべたら、それ以降の人生なんて暗くて退屈な夜にすぎない」
とさえ書いている。人はときに「獲得」よりも「喪失」を動機に思索や行動を決断するものなのだ。』
『懐疑や観念をもつということは、それが晴れるまでの時間をすべて引き受けるということである。
モンテーニュの文章にはこのような「クセジュ」を引き取る時間そのものが綴られている。
けれども、一様ではない。その引き取りのプロセスで、モンテーニュはふいに飛躍する。
すなわち、「クセジュ」に始まる思索を母体としながらも、
そこから生じる思索の方法に関する煌めきを随所に発揮する。』
『‥‥さて、このような「エセー」が結局ぼくに示唆したことは、「自分を質に入れない」ということだった。
だいたい人間というものは、学生になれば学生になったで、仕事につけば仕事についたで、
結婚すれば結婚したで、父親になれば父親になったで、政治家や弁護士になるとまたその分際で、
その社会の全体を自分大に見たがるものである。‥‥
‥‥モンテーニュはこのことをよく見抜いていて、どんなものにも自分を質に入れることを戒めた。
そして、そこからずれる自分のほうを見つめることを勧めた。その「ずれ」をそのまま綴ることが、
また、エセー(エッセイ)という新しい思索記述の方法を思いつかせたわけなのである。』
う~む、なるほど‥‥。
人はときに「獲得」よりも「喪失」を動機に思索や行動を決断するものなのですね‥‥。
私にもなんとなく理解できます。
この本を読んで、モンテーニュに興味を抱いたので、
まずは入門書として、『モンテーニュ 人生を旅するための7章』(宮下志朗著:岩波新書)を購入しました。
こうしてまた、積読本が一冊増えてしまいました。