今日、7月6日は「サラダ記念日」です。
日経新聞一面コラム「春秋」は、次のような粋な内容のコラムでした。その全文を引用させていただきます。
『「あふれるように、という表現ではまだるっこしい。噴き出すように短歌ができるようであった」。
かの「サラダ記念日」の跋文(ばつぶん)にこう記した。
1987年刊。たびたび読み返すが、噴き出す言葉の勢いは強烈だ。
表題作は、たぶん日本でいちばん有名な短歌だろう。
「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。
毎年、きょう7月6日が巡るとつい口に出してしまう。
バブルに突入する時代の、浮き立つような世の中を回想する人も多いはずだ。
「ナイターの風に吹かれている君のグレープフルーツいろの横顔」
男女雇用機会均等法の施行前後だが、男たちは威張っていたようである。
「『嫁さんになれよ』だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」。
いや、こういう物言いは転換期のあがきだったのかもしれない。
「『平凡な女でいろよ』激辛のスナック菓子を食べながら聞く」。昨今ならモラハラと責められようか。
80年代半ばごろの空気を濃密に感じさせながら、表現は少しも古びていない。
ニッポンがじわり衰退してきた歳月。
そんな変化をくぐり抜けた「三十(みそ)一(ひと)文字(もじ)」の威力である。
ふとページをめくれば「思い出はミックスベジタブルのよう けれど解凍してはいけない」。
郷愁に浸るのをたしなめられたようで、ぎくりとした。』
私の手元にある「サラダ記念日」は、1987年8月1日の59版、
初版が同年5月8日ですから、当時、わずか3カ月弱で爆発的に購読されていたことがうかがい知れます。
今、読み返してみると、
「思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ」とか、
「やさしさをうまく表現できぬこと許されており父の世代」、
「親は子を育ててきたというけれど勝手に赤い畑のトマト」といった歌が、なぜだか胸に染み入ります‥。
コラムで紹介されている「思い出はミックスベジタブル‥‥」、
確かに「思い出」というものは、彩のある色が混然一体としているような、そんな気がします。
改めて、「三十一文字(みそひともじ)」の威力を、今日は認識した次第です‥‥。