今日の日経新聞一面コラム「春秋」は、次のような文章で始まります。
『この酷暑がいつまで続くのかと心配していたら、気づけば田んぼはすっかり秋の気配に包まれていた。
吹く風が波のように穂を揺らす。棒のように細い首をぴょこんと出したのはシラサギだ。
羽を左右に広げると、稲の上を優雅に舞った。実りの季節がまたやってきた。‥‥』
はぃ、我が町にも、これと同じような風景が目の前に広がっています。
さて、昨日の続きです。
8月28日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、李屏瑤(りへいよう)の
「手に入ったものに無頓着なのに、失ったものがいつまでも記憶に残るというのは、人間の性(さが)だ。」
という「ことば」で、いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『人生の時々に、自分が何と出会い、何を得、何を捨てたのかは、ずっと後でしかわからない。
ただ、失ったものにはすぐに気づき、取り返しのつかなさにうろたえる。
「私」の骨格は私一人で組んだものではないからか。
十代を共有した女性らの惹(ひ)きあい斥(しりぞけ)けあう関係を濃やかに描く
台湾の作家の小説「向日性植物」(李琴峰訳)から。』
作家の名前も小説の名前も、コラムを読んで初めて知りました。
それはさておき、「人生の時々に、自分が何と出会い、何を得、何を捨てたのかは、
ずっと後でしかわからない。」というのは、人生の真理だと思います‥。
ただ、私の場合は、「ずっと後になってもわからない」こともあります‥‥。