しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「折々のことば」という引用の贈り物

今日は町立図書館に行って、9月11日(日)から9月17日(土)までの、

朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。


この一週間で印象に残ったのは9月15日(水)、倉本さおりさんの

「言葉っていうのは共有の井戸から汲(く)み出す水みたいなものだと思っている」という「ことば」で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『本というのはそういう水のすくい方の見本集のようなものだからだろう、人と本の話をしていると、

 その人が言葉のどんな汲み上げ方に惹(ひ)かれるのか、

 その人と言葉を通わせられるかどうかが見えてくると、書評家は言う。じかにその思いを訊くよりも鮮明に。

 竹田信弥・田中佳祐「読書会の教室」に収録した座談会

 「語り合うことの楽しみ、本をめぐる冒険」での発言から。』


ところで、この「折々のことば」は、17日で連載2500回を迎えるとのことで、

16日の文化欄紙面には、鷲田さんが、2015年の連載開始から、

日々どのような思いで「ことば」と向き合っているのか、その思いについて寄稿されていました。

そのなかには、次のような印象深い記述がありました。


『ことばの暴力と無力。ことばの横暴とことばの喪失。

 一方にことばで煽る人たちがいて、もう一方にことばの前で身を退く人たちがいる。

 ことばが両端に引き裂かれていて、この国を「言霊の幸わう国」などとは口が裂けても言えない。

 戦争の足音が遠くから響いてくるなか、人びとを煽ることでことばが戦争を構成することもあれば、

 口をつぐむことで人びとを戦争へと押しやることもある。

 だからことばの無力を前にうなだれてはいられないと焦る。』


『「折々のことば」は、小さな枠のなかで、水を撒くようにことばのかけらを撒く。

 文脈をていねいにつける紙幅がなく、人によって相反する受け止め方もされよう。

 ただ、「あれっ?」とひっかかるところを大事にしている。

 一瞬意味のつかめないような表現や逆説、言外に含みや毒のあるもの。

 それらがフックとなってつぎの思考が始まればいい。

 「折々のことば」という引用の織物が、引用の贈り物になればいいなと思っている。』


はぃ、「折々のことば」という「引用の贈り物」をいただき、私はとても感謝しています‥‥。