町立図書館で借りてきた『サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福』
(ユヴァル・ノア・ハラリ著:河出書房新社)を読了しました。
本書の中で、印象に残ったいくつかの記述を、次のとおりこの日記に書き残しておきます。
・宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。
・宗教の出現は、歴史上屈指の重要な革命であり、
普遍的な帝国や普遍的な貨幣の出現とちょうど同じように、人類の統一に不可欠の貢献をした。
・一神教は秩序を説明できるが、悪に当惑してしまう。二元論は悪を説明できるが、秩序に悩んでしまう。
この謎を論理的に解決する方法が一つだけある。
全宇宙を創造した単一の絶対神がいて、その神は悪である、主張するのだ。
・歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの前には、
想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。
・新しい資本主義の信条における第一にして最も神聖な掟は、
「生産利益は生産増加のために再投資されなくてはならない」だ。
これが資本主義が資本主義と呼ばれる所以だ。
・資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、
あるいは、少なくとも至高の善に変わるものであるということだ。
なぜなら、正義や自由やさらには幸福まで、すべてが経済成長に左右されるからだ。
・人間は力を増すほど幸せになれると考えるのは、あまりに安直だろう。
・一般に認められている定義によると、幸福とは「主観的厚生」とされる。
この見方によると、幸福とは、たった今感じている快感であれ、
自分の人生のあり方に対する長期にわたる満足感であれ、私が心の中で感じるものを意味する。
・予言者や詩人や哲学者は何千年も前に、持てるものに満足するほうが、
欲しいものをより多く手に入れるよりもはるかに重要なことを見抜いていた。
・私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、
「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。
この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。
・私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、
自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。
自分が何を望んでいるのかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?
・ハラリが本書では、かつてアフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れて
ほそぼそと暮らしていた取るに足らない動物(私たち現生人類)が
この二一世紀までたどってきた道のりを振り返り、将来を見据える。(訳者あとがき)
訳者は本書の「あとがき」で、次のように述べられていました。
『読書のみなさまも本書を読むことで、冒頭に書いたような、先入観や固定観念、常識を覆され、
視野が拡がり、新しい目で物事を眺められるようになるという体験を楽しんでいただけたなら幸いだ。』
はぃ、新しい目で物事を眺められるようになったかどうかは定かではありませんが、
「文明は人間を幸福にしたのか?」という著者の問いかけについて、
無い頭で考えながら読み通したことだけは間違いがありません‥‥。