しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「国民を包摂する言葉」とは?

今日の愛媛新聞「文化」欄に掲載された、人類学者・磯野真穂さん執筆による、

『「葬」を置き去った国~分断の象徴と化した死』という、

安倍元総理の国葬に関しての次のような内容の論考を読んで、少し考えるところがありました。


『‥‥葬儀の一つの役割は、死によって呼び起こされるさまざまな感情を共有し、治めることである。

 したがって、葬儀の議論において感情を置き去りにすることはできない。

 そしてこれは国葬であっても同様だ。国葬に反対する人々からは、法的根拠の無さが盛んに指摘された。

 しかし国葬の「葬」に注目すると、それは二次的な問題である。

 菅義偉前首相は弔辞において「いつも、周りの人たちに気を配り、優しさを降り注いだ」と

 安倍元首相の人柄を形容した。葬儀に必要なのはこのように故人をしのぶ気持ちであり、

 それがなければ法的根拠も意味がない。この観点から捉えると、今回の最大の問題は、

 菅前首相のように故人を捉えられない人々の感情を置き去りにしまま国葬が執り行われたこと。

 賛成派と反対派の間で憎悪と言う感情が飛び交う事態を放置したこと。この二つである。

 民主主義国家であるから、意見の相違はあって然るべきだ。しかし少なくとも岸田文雄首相は、

 安倍元首相の死を厳かにしのべない人々の感情に届く言葉を、国民を包摂する言葉を発するべきであった。

 国葬と名付けた以上、どんな国民もそこに当事者として含まれるからである。

 強いリーダーシップが安倍元首相の持ち味であったが、

 国内に敵をつくり味方の団結を強める手法によっていたことは否めない。

 今回の国葬は「そうであっても」という形で再スタートを切る気概を

 国民の中につくる契機にもなり得たはずだが、それどころか、

 その手法の負の部分を再燃させる事態となった。「葬」を置き去りにした国葬の顛末と言えよう。』


う~む‥‥。(沈黙)

磯野さんが指摘する「国民を包摂する言葉」とは、例えば、どのような言葉が想定されるのでしょう‥?

私は到底思いつくことができないのだけれど、かといって、この論考でも具体的な言及がないので、

モヤっとした感情が置き去りにされたままなのです‥‥。