町立図書館に本を返却した際に、「文藝春秋12月号」を閲覧しました。
巻頭の「古風堂々」には、いつものように作家で数学者の藤原正彦さんがエッセイを寄稿されていましたが、
今回は「捨てるものか」というタイトルの中で、
日本の学校の卒業式で「仰げば尊し」が始まると涙が流れるのは何故かについて、
次のようなことを書かれていました。
『‥‥辛いのは先生や友との別れではなく、この学校で先生や友と共有した時間の終焉なのだと思った。
別れはそれまで一緒に過ごしてきた時間の死であり、自分の一部の死でもある。
井伏鱒二の「サヨナラだけが人生だ」という言葉を思い起こした。
「時の流れはすべて有限時間後に別れに収れんする」ということで、
まさに日本人特有の「もののあわれ」のことだ。‥‥』
これに対し、アメリカの卒業式は、会場に入場した卒業生たちに掛け声や嬌声が飛び交うなど、
涙とは無縁のものだとして、次のように書かれていました。
『‥‥アメリカ人は誰もが、過去の一時点で故郷とその伝統や慣習を捨てた人々である。
振り返るべき過去との絆を断たれた人々の視線は、必然的に未来へと向かう。
未来志向の彼等にとって、別れは次の段階への祝うべき出発点にすぎない。
だから卒業式をコメンスメント(始まり)ともいう。‥‥』
う~む、なるほど‥‥。そういうものなのかな‥。
国民性の違いと言ってしまえばそれまでなんだけど、
じゃあ「過去の一時点で故郷とその伝統や慣習を捨てた」とされるアメリカ人は、
例えば室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて 異土の乞食かたゐとなるとても 帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ‥‥」という望郷の詩句
(実際は、犀星が郷里の金沢に帰郷した際に作られた詩とされる)の世界観は理解できないのかな‥?
国民性ではなくて、人それぞれの受け止め方の違いなのかしら‥?
エッセイを読みながら、ふとそんなことを考えた次第です‥‥。
追記
サッカーW杯カタール大会の「日本代表」対「コスタリカ代表」の試合は、
「0」対「1」で日本代表が敗れました。
緩慢な時間が流れて「0」対「0」で前半が終了したとき、嫌な予感が頭をよぎりましたが、
それが現実となってしまいました。
「相手以上の点を取らないと勝てない」というシンプな法則を、骨の髄まで思い知らされた試合となりました。
ただ、日本代表を応援する国民の「共有する時間」は、対スペイン戦まで終焉することはありません‥‥。